幻燈館殺人事件 後篇
* 5 *
日も沈み、村は夜の闇に染まっていた。
「やっと帰ってくれましたよ」
そう言ってへたり込んだ皆川の顔には、心底疲れ果てた、と書いてあった。
「ああ、聞こえていた」
蜂須賀は、何をするということもなく駐在所の一室にある囲炉裏の傍らにあり、遺体の引渡しを求める遺族への対応を終えたばかりの皆川の労をねぎらうでもなく、あくまで事実の報告をそれとして受け止めた。
皆川は蜂須賀の斜向かいに座り、囲炉裏に薪をくべる。
「犯人、捕まえられますよね」
「相手を間違っている。捜査を担当する部署に聞くことだ」
間を持たせるために会話を求めた皆川であったが、その思惑は蜂須賀の素っ気ない返答によってあっけなく打ち砕かれた。
そうして、無言の時間が流れ始めた。
駐在所ではあるが、同時に赤碕の住居でもある。蜂須賀は勿論のこと、顔見知りである皆川にしても、勝手に食事を作ったり床を敷いたりといった行為に及ぶのには抵抗があった。
しばらくの沈黙のあと、皆川は再び蜂須賀に問い掛けた。
「この事件、蜂須賀さんはどのようにお考えですか?」
蜂須賀は間を置かずに答える。
「気持ちは分かるが、捜査に加わっていない者は事件についての見解を持つものではないよ。担当する者に対して礼を欠く行為となろう。どうやら君は正義感に溢れる人物のようだが、立場というものを理解する必要がある。自分の立場だけでなく、相手の立場もだ」
「担当ではなくとも、関係者ではあります」
皆川は即座に反論する。
「この村の駐在所員でもなければ、第一発見者でもない。さらには、被害者と深い仲にあったわけでもない。駐在所員と仲が良いだけの君の言い分は、道理的にも心情的にも聞き入れることはできない」
苛立ちを隠そうともせず、反対に、今にも噛みつかんばかりの気迫を見せる皆川に対し、蜂須賀はあくまでも冷静に事実から導き出した正論を突きつける。
感情を昂らせた相手に正論を返すのは愚かなこととされているが、蜂須賀は敢えてその愚を冒しているわけではない。
単純に持っていないのだ。興味を。
皆川という男に対する興味を。
「自分は! 刑事課に配属された刑事でありながら殺人事件の捜査経験がありません」
「だろうな。署の記録によれば、この十年の間この界隈で殺人事件は発生していない」
蜂須賀は、それがどうした、と言わんばかりに取り合おうとしない。
「蜂須賀さんは、自分の経験不足が原因で犯人を取り逃がした、と被害者の墓前に報告できますか? 被害者遺族にそう言えるんですか?」
「それが事実ならば」
言葉を交わす度に、皆川の声はより熱を帯びていく。相対的に、蜂須賀の声は冷たく聞こえる。
「そういうことではないんですよ! 事件解決に何が必要で、解決するためにどうすればいいのか、それを知りたいんです! あんなに惨い死体を前にしても動じないようになるには、経験と、それに基づいた自信が必要でしょう!?」
「死体を前に平然としていられるようになるのが目的なら、警察を辞めて殺人鬼になることだな」
殺人鬼という言葉を聞いて、皆川は怒りを顕にする。
「蜂須賀さんは平然としていたではありませんか!」
「平然としていた? それは違うな。他殺体を目の当たりにした際、胸中にある一番強い感情は犯人に対する怒りだ。逃がしはしない、必ず捕まえる。そう考えれば、自ずとやるべきことができる。死体を前に怯むのは、覚悟が足りない証だ。尤も、これは個人の考えであって、皆川君に同じことを強いるものではない。体質というものもあるからな」
口調は穏やか。しかし声に感情はなく、淡々と事務的に返すだけだ。
蜂須賀は皆川を見ることもしていない。
「だが、是が非にでもと言うであれば、質問には答えよう」
蜂須賀の突然の方向転換に虚を突かれ、言葉を失う皆川。
「どうした。質問はないのか」
蜂須賀にそう言われて我に返った皆川は、短い深呼吸を行ってから、ゆっくりとした口調で尋ねた。
「では教えてください。この事件についてどのようにお考えですか?」
「さっき言ったように、何も考えていない」
「赤碕に出した指示の意図は?」
「特別な意図などはない。ここは地形によって隔離された盆地で、出入りが著しく制限されている。事件発生直後に村を出た者がいれば、調べるのは当然だ」
「子供たちに話を聞いていたのは?」
「現場付近で変な声を耳にしたと言っていたのは覚えているだろう。その声はどんな内容だったのか、悲鳴だったのか、はたまた怒号だったのか、そのあたりの確認だ。‘変な声’という曖昧な言葉では、動物の声を聞き間違えたとも考えられる」
「犯人は村の者でしょうか?」
「さあな」
「さあなって、そんな……」
「繰り返すが、事件については何も考えていない。目の前で起きた現象に、最善と思われる対処をしただけだのことだ」
「犯人に対する怒りはどこへ行ったんですか。必ず捕まえるんじゃないんですか」
「捕まえるさ。だがな、皆川君。警察官は一人だけではないだろう。それぞれが様々な役割を担っている。あの場では、経験不足な刑事に代わって初動の指示を出すことが、犯人逮捕のために担うべき役割だと判断したのだよ」
「なら! 経験不足な刑事に代わって犯人を逮捕してくださいよ!」
皆川は、再び感情を爆発させた。
それでも蜂須賀は動じない。
「話を聞いていなかったのか。役割分担だよ。捜査に加わるのは吝かではないが、君は捜査の担当ではない」
「では、土下座してでも捜査に加えてもらってきます。それなら文句はないでしょう?」
「無駄なことは止めておきたまえ」
「それはやってみなければ分かりません」
「いや、無駄だ。足利家は九条と浅からぬ関係を持っている。九条と警察との癒着を疑っている君は、捜査に乗じてあれこれと嗅ぎまわりかねないからな」
「それは癒着を認めているということになりませんか」
「どうかな。ただ、九条が道路整備の資金を提供していることは確かで、この地域はそれを歓迎している。警察が九条の機嫌を損ねたせいで資金提供が打ち切られたとしたら、近隣の住民はどう思うだろう」
「自分には……あなたという人が分かりません」
「難しいことは言っていない。論理的に理解できないのではなく、心情的に同意できないのであれば、こちらとしても強制するつもりはない。自身の指針に従えばいいだろう。こちらもそうする」
ここで皆川は諦めた。感情論ではこの男を動かすことはできないと悟ったのだ。同時に、捜査に加わりたいという意思が、逮捕のためではなく己の糧とするために生まれたものであると気付いた。
皆川は正義感の強い男だ。その強い正義感を、自身に向けることができる男だ。
惜しむらくは、生まれ育った場所が平和すぎた。
「少し出る」
蜂須賀はこれ以上の質問はないと判断し、躊躇いのない動きで立ち上がった。
「行き先は幻燈館だ。こんな状況だ。すぐに戻るつもりではあるが、何かあれば使いを立てる。赤碕君にそのように伝えておいてくれ」
皆川からの返事はなかったが、そもそも蜂須賀はそれを待つつもりはなく、求めてさえもいなかった。
身支度を済ませた蜂須賀が、駐在所の戸口に手を伸ばしたそのときだ。
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近