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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

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 自分自身にすら、まだ漠然としか捉えられない「何か」を。この王は、見透かしているのだと。
 長として立つ彼の、地属の力を知り、また他の属性の力をも広く知る、神々の王。
 これが、太陽神ホルアクティという存在であると。
 シエンは静かに目を閉じる。道は確かに示されている、迷いなどない。ただ――
(姉さんが生きていれば、……反対したかもしれないな)
 いつも身を案じてくれた姉。その命と引き換えに手にした、大地の剣。呪われたこの剣を、一度は否定しようとした。次には、過去そのために奪った命を、守るためにあるべきと、そう考えた。
 そうだ。戦では常に、守るためにその力を用いるべきだと、そう考えていた。
 だが、今は、違う。
(父さん――俺はあなたのように、守るために戦うのじゃない)
 地属の血を太陽神側に残した父。思えば、まるで必然だった。
 誰も、父自身も、この結果を思いはしなかったろう。それでも――望む望まぬにかかわらず、……いや、それは確かに望まれたのだ。大地の、意思に。
 父の故郷で、同じ血族が命を懸けて成しとげ、守ろうとしているもの。それを彼は、この剣をもって打ち砕こうとしている。
 自身の、この、手で。
 父は、もちろん母も、望んだりはしないだろう。自ら争いを呼ぶような、この選択を。……けれど、
 知ってしまったから。この剣が自身の手に握られた、まことの理由を。
 守るのではなく、戦うのだ。守ろうとするものから、それを奪うのだ。
 たとえそこに、血が流れても――。

 ふと、池の前のポーチに人影をみとめ、足を止めた。
 キレスだ。ポーチの端に足を投げ出し、前屈みに座る彼の、長い髪の先が床を這う。時々その髪から、雫が落ちるので、沐浴の後であることがわかった。
(寝ているのか?)
 近づくが反応はない。珍しいことではないが。
 ふと、彼の黒髪がところどころ不揃いなことに気づき、目を凝らすと、その背に無数の切り傷があった。深くはないが、水が染みたことだろう。シエンは彼の力で傷を治してやろうと、その背に手を伸ばした。
 そのときだった。キレスが突然、激しい形相で振り返った。宙に広がる黒髪。開かれた両の眼が、薄闇の中に光を帯びる。
「!」
 シエンは素早く身を翻したが、その力を完全には避け切れず、足に僅かに傷を負った。キレスはすぐにシエンだと気づいたようだ、直後に力を収め、その瞳にはわずかに後悔の色が見えた。
「ごめん」しかし謝罪の言葉を口にしたのは、シエンのほうだった。「傷を、治すだけだから」
 そうしてもう一度、今度こそ確かに、傷をふさいでやった。
 キレスは――いつも通り――当然のようにそれを受け止めながら、口では、このくらいほっとけよ、と憎まれ口をたたく。シエンは肩を竦ませて笑むと、池に向かった。
 自身の傷を癒しながら、驚かせたな、と思う。ただこれまでは、あんなふうに咄嗟に力を放つようなことはなかった。それが少し、気にはなる。
 これまでずっと、記憶がないことで、他人と距離をとるようにして生きてきたキレス。記憶を戻したことで、彼のそうした心情――理由なく不安に思うことや、どこか後ろめたさを感じること――が、軽減するのではないかと、そう期待していた、けれど。
(そんなに、すぐには、変わらないものかな)
 それどころか、これまで無かったものが存在することで、より不安定になっているようにも見える。
(時が、解決してくれればいいが――)
 ひと潜りして汗を流し去り、シエンは池から上がる。するとそのとき、頭上をふわりと何かが横切った。――キレスだ。
「なあ、シエン」
 キレスは池の上に、まるで体重を感じさせない様子で身を留める。薄闇の中、長い黒髪を漂わせ、茜色の空を背に浮かぶ姿。その、息を呑むほどの妖艶さ。
「お前。俺の結界、壊せるか?」
 口の端をにいと持ち上げそう言うと、キレスは自身を透明な結界に包ませた。
 シエンは困ったように瞬く。彼の意図が、まったくつかめない。
 すると、結界の内側で、キレスの口が動いた。――来いよ、と。
 戸惑いながらも、シエンは彼の望みに応じようと、力を示す。身をかがめ、地にその腕を伸ばし、生み出した岩石の塊を結界に向けて放った。
 当然――と、シエンは思った――、岩石は結界に弾かれ池に落ちる。月属の結界がいかに強力かは、共に戦った彼にはよく分かっていたのだ。
 しかし、キレスは満足しなかった。やる気あんのかよ、と苛ついた表情を見せる。――仕方がない。シエンはふっと短く息をつくと、覚悟を決めたように、その瞳を鋭くした。
 そうして、しばらくの間、中央神殿北側の池、その狭い領域で、地属の長と月属の長の「攻防」が続いた。攻防といっても、シエンが一方的に仕掛け、キレスはそれを防いでいるだけだ。
 あまりに大きな力の衝突だったので、技神カナスが何事かとその場に駆けつけた。シエンが心配ないことを伝えたが、あまりの気迫にカナスはその場を去ることができなかった。
 ただ、シエンは疲労がかなり蓄積していたこともあり、それは長くは続かなかった。
「そろそろ……、満足したか」
 肩を激しく上下させ、シエンが声をかけた。結界内のキレスもまた、肩で息をしている。結界は維持されたままだった。
 キレスが結界を解く。しかし、彼は終わらせるつもりはない様子で、
「まだだろ、シエン」挑発的な笑みを浮かべ、言った。「出せよ。――『大地の剣』を」
(大地の、剣?)
 シエンがはっと息をつめる。キレスはいったい、何をしたいのか。
 千年前の「月」の姫、その命を奪った剣。……今生は同じ轍を踏むまいと、自身の力でその運命を変える確信を得ようというのだろうか。
「お前が、望むなら――」
 シエンは低くつぶやくと、その腕にひとふりの剣を握った。すらりと伸びた刃の鮮やかな緑は、空に残るくすんだ茜色に怪しく映える。
 キレスがもう一度、結界を生み出す。シエンは、手にした剣で、それを薙いでみせた。
 ――結界の抵抗を受けると思った。しかしそれに身構えたシエンは、肩透かしを食らったように、自身の放った剣の勢いに体制を崩す。
 傍らでそれを見ていたカナスも、信じられないというように目を見開いた。
 剣の一振り。たったそれだけで、これまで激しい力を受け止め続けていたキレスの強固な結界は、一瞬にして弾け、消え去ったのだ。
 シエンはその瞬間、キレスが、やっぱり、とつぶやいたのを、聞いた気がした。
 キレスはつと宙を渡り、池の岸辺に静かに着地する。そうして立ち上がったシエンに、確信的な、どこか悪戯っぽい笑みを見せ、こう言った。
「お前、それで俺を殺したら、あの世でずっと恨んでやるからな」