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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

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上・兄と弟・3、近さ



 扉を閉じると同時に、女神ヒスカは深い溜息を漏らした。
 中央神殿へ、カムアの治療にやってきたのだった。しかしほとんど手の施しようのない状態だった。あとは本人の生命力次第という他ない。
 彼の四肢に刻まれた傷痕。虫が這い回り喰い散らしたような惨たらしいその痕に、何度も顔をそむけたくなった。目に映すだけで、ひどく消耗するようだった。
 何か。ただ大きな力というだけでない、禍々しい「何か」が、そこにある。彼女が尊び、守ろうとしているものを脅かす、邪悪なもの――。
 ヒスカはもう一度息を吐き出した。思い起こすだけで気分が悪くなる。夫の待つ前庭へ急ごうと考えたが、体がいうことを聞いてくれない。ヒスカはぐったりとそばの柱に身を預けた。
 中庭を挟む柱廊に差し掛かったところだった。生暖かい風の吹き抜ける影の中で、向こうに広がる白い――何もない、ただ陽光を照り返すばかりの――石畳の庭を、ぼんやりと眺めていた。
 すると、しゃん、しゃんと涼しげな音がかすかに耳に届く。
 何気なく振り返ったヒスカの目が、はっと見開かれた。
 キレスだ。あたりを見回すようにして、こちらに近づいてくる。そうして、その目が少し遠くからヒスカをとらえた。
 ヒスカは思わず息を止め、小さく身を縮める。彼女はその瞬間、昨夜の処置室での彼の様子を――そしてまた、さきほど目にした傷痕を、重ね合わせた。禍々しい「何か」――。
 全身で警戒するヒスカに対して、キレスはまるで気に留めないようすで、
「ケオル知らない」とだけ訊ねた。
 不思議なほど清く透った紫色の双眸以外、昨夜の様子を思わせるものはなかった。何の含みもない自然なその表情に、けれどヒスカの鼓動は駆け上がる。これは、これこそは、危険なものだ。邪気のないその様子こそは、邪悪さを自覚したものの見せる悪意よりも、何倍も危険なものである。関わってはならない――。
 しかし、意識が強くそれを知らせながら、彼女の中に浮かぶ、そうした根拠のない嫌悪を抱くことに対する罪悪感が、激しく揺さぶりをかけてくる。
「知ら、ないわ――」
 ヒスカはどうにか震える声を搾り出した。
 キレスはやはり意に介さぬようすで、ふうんとだけ答え、そこを通り過ぎようとした。
 と、ヒスカのすぐ隣で、彼はぴたりと足を止める。そうしてわずかに顔を向け、一言。
「かわいそ」
 冷ややかな響き。ヒスカはこの瞬間、突如かれの表情に差した影に、そしてその視線の先にあるものにはっと息をのんだ。彼の、紫の双眸がぎらりと彩を躍らせる――。
「いやああああ!!」
 妻の悲鳴を聞きつけ、夫ヤナセが駆けつけると、呼び止める間もなくキレスはその姿を消し去った。
 倒れこむ妻を抱き起こす。と、ヒスカはその腕を払い退け、黒髪をふり乱して、ひどく興奮したようすで叫んだ。
「いやっ! 子供が……私の子供が、殺される! ――やめてッ!」
 見えないなにかに怯えるように、身体をふるわせ、激しく首を振る。何度も、何度も。
(キレスが、何かしたのか)
 妻をなだめながら、ヤナセは困惑を隠せない。かすり傷を負ってはいるが、ひどい怪我ではない。妻の言うような、死に及ぶ力を用いた様子ではなかった。それよりも、妻の気の高ぶりが異常だ。まるで何かに憑かれたかのようだ。
 何があったのかと尋ねるが、まともな返答がされない。子供が、殺される。ただそればかりを、狂人のように繰り返す。
 不安に駆られ、すぐさま息子の待つ東に戻ったが、わが子は友人の見守る中すうすうと安らかな寝息を立てているのだった。
 胸をなでおろしたその裏側で、じわりと湧き出す疑念。ヤナセは、昨夜ジョセフィールによって伝えられた千年前の出来事を思い出さずにはいられなかった。
 義兄の精神にとり憑き、彼を破滅に追いやったと言われる、月。その得体のしれない力。
 ヤナセはぞっと身体を震わせる。戦の終結に向かうはずの今、何かよくない兆しが――目に見えないところで、生じているのではないか。彼のうちにも、そうした不安が、疑いが、あの夜から消えないでいた。
(だが、好きにはさせん――決して)
 彼の幼い息子が、目を覚ました。ぱちぱちと瞬きながら父親を見上げるその目に、ヤナセは強張りを解いてそっと笑みかけ、抱き上げる。
 その小さな重みに、守るべき存在を確かにするように。
  
      *

 日が落ちる時刻になっても、ラアはまだカムアの部屋にいた。
 あまり広くないその部屋の隅、椅子に腰掛け、ぼんやりとうつむく顔。その黒の瞳には、傍の寝台に横たわる親友の姿。
 カムアは、まだ目を覚まさない。
 たくさんのことが胸をゆすり、ぐちゃぐちゃになって、その感情のまま放出した力。その、ラア自身の力が、大切な親友を蝕んだ。
 治療のためやってきたヒスカは終始無言だった。処置しながら、その傷口の凄惨さに言葉が出ない様子で、寄せた眉を震わせていた。それをラアは、傍でただじっと見ていた。
 何もできなかった。手を出すことを、ヒスカに拒まれていると感じていた。実際、何か積極的な処置をしようとしても、今のカムアには負担になる可能性があった。傷をふさぐことくらいしかできなかったのだ。
 けれどほんとうは、それだけの理由ではないのだろう。
 ラアはカムアの手を見つめる。清潔な白い包帯で、一本一本丁寧に巻かれているその指の先、僅かにのぞいて見える骨。顔の左側にも、大きなあざが見える。――全部、ラア自身がやったことだった。ヒスカの無言の責めを、けれどラアはそこで黙って、受け止めていなければならないと思った。
 そうして彼女が去った後も、ずっとここにいた。何をするわけでもなかった。ただ、目が覚めたら伝えたいことがあった。どうしても、伝えたいことが。
 静寂のうちにあると、いろいろなことが思い出された。昨夜、中庭で起こったこと。数か月前、北を訪れた時のこと。カムアと再会した時のこと、南の森での日々。彼と初めて会った時のこと。
 そのうち、十年前の、先の戦のことも思い出した。……幼かったラアはそのとき、ずっとヒキイの腕に抱かれていた。戦が起こったことも、それがどれだけ恐ろしいことかも、はっきりとは認識できないまま、気づけば人間界に降りていた。ヒキイはラアの姉も連れて、激しく砂塵の舞う荒れた大気の中を、より安全な場所へと向かっていた。
 その視界を覆う砂の向こうに、幼いラアは、小さな花を見た。白い花――そう、それは、睡蓮だった。
 ラアはヒキイの腕の中から手を伸ばし、それを欲した。ヒキイが、そちらは風が強いから、危ないのだと何度もなだめるが、聞こうとしなかった。状況の分からない幼子のわがままだった。……あるいは、文字通り先の見えない不安の中で、何か拠り所となるものが欲しかったのかもしれない。
 そうするうちに、姉が駆け出した。その花を手にすることくらい、造作もないことのように思えた。けれど――不幸な事故は起きてしまった。
 自分のせいだった。たった一つの花を欲したために、姉が。
 そんなことを、すっかり忘れていた。いまさらそのことで、自分を必要以上に責めようとは思わない。ただ昨夜のことで、それが引き出されたのだった。