睡蓮の書 四、知の章
圧倒的な「力」。自分自身から出で、心の赴くままに形となる。戦の中では、考えるその一瞬が隙となる。瞬時に力を示さなければ、ただ死だけが待っている。そうした状況の中で、知属の力は無に等しい。まず即効の力がなければ、簡単に多くのものを失ってしまう。知属の力が利となるのは、安全が保証される場合か、先行する力の存在が前提となったときだけだ。
昨夜の争いで自分が戻ってこれたのは、さまざまな偶然――対峙した敵の主導者が知属であったこと、四属の上位神が現れなかったこと――が重なったためとしか言いようがない。またそうでなければ、キレスにとって単に足手まといになっていたに違いないのだ。
兄は、戦をその身に経験する前に、戦における己の立場を、あの若さで、想定していたのだろう。
それだけではない。ケオルはあの後何度も……兄を超えようと多くを学び知るたび、これまで兄に与えられた助言が、いかに考え抜かれたものかに気づかされてきた。はじめには、もっと明確に回答を示すことができたはずだと、兄の冷たさの表れのように感じていた。けれどその後、兄が何のためにわざわざ遠回りに答えを示したのか――それが単に考えさせるためだけではなく、遠くともその道でなければならなかったということ、そうして考え知り得た、回答とは別の部分が、視野を広げる土台となるのだと――そのことに思い至ったときの衝撃。それも、一度や二度ではないのだ。
自身の道を定める頃には、兄を超えようという気持ちは、すっかりなくなっていた。
同じ年頃の自分自身を振り返っても、兄のような視点は持てなかった。いや、それから何年も経った今になっても、その断片ほどにしか触れられないでいる。おそらくまだ気づけていないことが、山とあるのだろう。
この人には、かなわない。多くを知るほど、強く思い知らされる。
先を歩く兄を映す。その背には、いつまでたっても追いつけそうにない。まだ、ずっと遠い。幼いころ思っていたより、ずっと――それは知るほど遠ざかるようにさえ感じられた。
ケオルはふうっとため息を吐く。そうしてうつむいたまま、ぽつりとこぼす。
「……正直いうと、北の言うことがただ信じられないから、認めてやれない、いや、認めたくない……だけなのかもしれない」
自信が削がれていた。いや、その根拠のなさが露呈したと言うべきだろう。兄の前では、どんな誤魔化しも通用しない。どんなに強がっても、その無言の態度の前に、心のうちを覆うものが焼け崩され、省かれてゆく。
「小さなことにこだわって、ただ受け入れない理由を作りたいだけ……かもしれない」
不安を隠していた。この道は、真実を遠ざける道ではないのかと。受け入れがたいものであるからと、確かな理由なく拒んではならないはずだ。真実を追究するものは、その態度を何より欠いてはならないのだ。
いつの間にか、兄の部屋の前に来ていた。兄は扉に手をかけたまま、ゆっくりとケオルを振り返る。そして、
「疑問の余地を、残すべきではないだろう」
まるで当然のように、そう言った。
ケオルははっと顔を上げる。――そのとおりだ、まったく、そのとおりなのだ。
たったそれだけの言葉で、瞬時に胸のうちの迷いが晴れる。この道で間違っていないのだと、兄の言葉がその意思を支える柱となる。
ケオルにとってこんなに心強いことはない。そして思うのだ、自分は兄に、この言葉を求めていたのではないかと。
真摯に向き合えば、求める真実が返される。……ケオルは噛み締めるように目を閉じた。
以前のことを思えば、ずっと、兄と会話ができるようになった。それはそのまま、ケオル自身の成長を示しているかのようだ。
その言葉に答えるだけの価値があれば、兄は必ず返答してくれる。すべて、自分次第なのだ。その芯となるものは、いつまでも変わらない。優しさや気遣いのような、揺れ動くものは不要とされ、決して妥協はない。だからこそ、そこから測れば、いつでも正確なのだ。
「うん。そうだよな」
すっと息を吸い込み、顎を引く。いつもの、知神としての彼が、そこにいた。
もう何も迷うことはなかった。確かな自信が、醜い嫉妬や疑念、暗い気持ちを覆い隠し、ずっと底の方へ追いやっていた。
この道を行けば間違いなどないと信じられる。そして、ほんの僅かでも、確かに兄に近づける。
今の彼には、それで十分だった。
*
中央神殿の中庭にひとり立ち、シエンは息をついた。
完全に元通りとはいかないが、惨状の面影はほぼなくなっただろう。石畳はひとつひとつがずいぶん細かくなったが、でこぼこもなく整えられている。柱の形もどっしりと円筒が連なるだけで飾り気がないが、使用に問題はない。復旧はひとまず、完了したといえるだろう。
シエンは天を仰いだ。日は、西の山に姿を隠していた。空は明るい茜色で、東にはうっすらと瞬く星が見える。
昼ごろから、たびたび休憩を挟んだとはいえ、一気にやり通したのだ。かなりの疲労を覚えていた。シエンは沐浴のため、個室の並ぶ北側の池へ向かった。
戦のあと、あまり十分な休息もとらずに力を用いた。疲れていないはずはない――しかしそれは身体のことで、精神的にはむしろ、清々しい。
なぜだろう。シエンは手のひらを見つめる。
北から戻り、敵襲に応じた際、彼は自身の力を用いながら、どこか今までと違うと感じていた。復旧作業のときも、これまでとは何か、感覚的に、異なっている気がした。
これまでにない、感覚。――その理由に、シエンは程なく、気づいた。
そうだ、変わったのは、自分自身の、意識だ。
昨夜。北に向かい、生命神と対したあのとき。キレスを助けようと、「個」としての存在を投げ打つ決心をした、そのとき。
シエンは、集合体としての大地の「意思」を“知った”。それは言葉でなく、感覚で。
その瞬間、シエンの意識はそれ――まるで地のずっと底から、波紋のように湧き出し、強弱繰り返し響くもの――の、一部となっていた。自身がその響きを受け止め、また響きそのものであり、さらに、響きの根源であるかのように、感じた。
確かな同調。脈々と連なるこの地属の「血」が教えるもの。彼を存在させる、これまでに存在してきたものたち。時の始めから姿を変えつつそこに存在し続けるものたち。それらすべてが、シエン自身の力をその片鱗として生じさせるのだと。それを、彼は、知ったのだ。
その経験が、地属の力を用いるときの意識に、影響しているのかもしれない。
午前に、太陽神ラア・ホルアクティの謁見を受けたとき。人間界への往来を許可してほしいとの彼の願いに、少年王はにっこりと笑みを見せると、彼への例外的な許可の理由を、こう述べた。
「きみは、もう自分の道がちゃんと見えてるんだね」
玉座に深く腰掛けたラアは、変わらず小柄であったが、開かれた大きな双眸は、無邪気な輝きよりもずっと、落ち着いた黄金を、その闇色の中に浮かべていた。
まばたきもなく見つめられると、何もかも見透かされているようだ。
それでもシエンは、少年の変化に驚きこそすれ、その瞳を避けようなどとは微塵も思わなかった。
――わかっているのだ、と。この、若き王には。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき