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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

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 彼の願いはただひとつ。個として言葉を交わしたかった。
 いつかの父と兄のように。――あれからずっと、そう願ってやまない。
 言葉を、対しあい心を向けて交わすことは、自身の存在を確かにするための欠くべからざる行為である。ケオルはそう、信じていた。
 兄とそれができれば、どんなに幸福だろう。
(いつか、兄貴が、自分を認めてくれるときが来たら――なんて)
 ケオルは空を仰ぎ、息をついた。望む結果が得られるまでの道筋は明らかでない。まるでうっそうと木々の生い茂るこの深い森のように、先が見通せない。
 兄はこの中にいる、けれど、どこにいるのか分からない。いつも、分からなかった。兄が何を考え、何をその目に映しているのか――
「!」
 ケオルはぴたりととまり、一点を見つめる。木々の陰から静かに現れた、人影。
「あ、にき」
 兄フチアだった。声を漏らすと同時に、顔がほころぶ。まるで反射だ。それは、心地よい反射。
 ケオルはすぐに駆け寄った。と、兄の右腕と右脇腹の傷が目に留まる。
 肉を削ぐように抉ったその痕を、どこかで、見た――
 無言のまま、兄は腕を組んだ。腕を組むことは別段珍しいことではない、ただ、そうすることで、その傷を隠したようにも見えた。
 それから見据える兄の眼に促されるように、ケオルは言葉を探した。なぜだか焦りを覚える。
「よかった、無事で」
 どうにか出てきた言葉は本心だったが、うわべを飾るものだった。兄はやはり応えず、神殿奥へと歩を進める。ケオルはいつものように、その横より少し後ろに、付き従った。
 歩きながら、素早く話すべきことを引き出す。まず知神としての彼に必要なことを、助言を求める形で言葉を紡ぐことにした。そうしたことには必ず、言葉が返されるからだ。
「昨夜、あのあと、北の知神にあったんだ」
 兄の反応はない。聞いているかそうでないか分からない――いつものことだが。ケオルは続けた。
「その『記神セシャト』に、予言書第51章の解釈を、語られたよ」
 兄が足を止め、視線をよこした。言葉が続けられるのを待っている――もちろんそうだろう、ケオルは思った。この予言書第51章こそは、父の代に現れ、父が解けず今でも解釈が定かではない節だ。そこに隠された意味を、北の知神がどう捉えたか? 関心がないはずがない。
 まるで自身が望まれているような錯覚に高揚する。ケオルはそれを抑えるように、慎重に言葉を続けた。
「『恵み満ちゆく果て』を北の神殿と捉えて、主体を生命神ハピとしていた。――都合がいいだろ。
 それと、『ルウティ・レクウィ』“双頭の獅子”を、彼女は『冥府の門』と解いたんだ」
「……冥府の門」
 フチアが声する。信じられないだろ、とケオルが返した。
「その双頭の獅子『に負われ、明ける地平より出で来た』るもの、すなわち太陽。それが、北に存在する『冥府の門』から死者が蘇生することを表す、というんだ。それは既に実現していると」
 紅い瞳が、僅かに細められた気がした。ケオルはそれをじっと見つめ返す。もちろんあってはならないことだと、訴えるように。
「セシャト神は、それこそが生命神ハピの掲げる理《ことわり》だと、そう言っていた」
 そこまで言うとフチアは、そうか、とだけ応え、また歩き出した。
「けど、」
 と、ケオルはその後ろに続きながら声を上げる。耳を傾けてもらえるその時間を、長くとどめておこうとするように。
「真偽はともかく、それだけではまだ明らかにされていないことがある。
 『ルウティ・レクウィ』の、ルウティは確かに双頭の獅子だけど、セシャト神は『レクウィ』の部分を示さなかった。これが明らかにされない限り、その解釈は認められない」
 ケオルはきっぱりと言い切った。認めてはならないのだ、というように。
「それで?」フチアはわずかに振り返り、言った。「お前はどう解く」
「――それは、まだ……」
 ケオルは言葉を濁す。――答えられない。今の自分には。
 フチアは無言のまま、また前を向き、歩き出した。
 その背を見つめるケオルの胸に、じわりと不安が広がる。いま、兄は何を考えただろう。言葉なく、何を思っただろう。何の意見も持てない自分に呆れたのだろうか。それとも、端から期待などしていなかったのだろうか。
 兄貴は、どう思う? ――そう聞きかけて、口をつぐんだ。
 以前も、同じ言葉で訊ねたとき、こう言われたはずだ。……それは知神の仕事だ、と。
 そんなことを言うなんて、と、あのとき思った。
 知神となることを誰よりも望まれた、兄が。
 その地位を捨てた、兄が。
 その地位を得たものこそが、それをすべきであると。
 なぜそんなことが言えるのか。まるで自身の負うべき責務を放棄し、他者に擦り付けるように。
 なぜ――なぜ、兄はあのとき、知神となる道を、拒んだのだろう。
 まだ道も定めぬ幼いころから、兄はずっと父の仕事を傍で見てきたはずだ。知属の長であった父は、よく兄を付き添わせて仕事に向かった。それを兄が拒むことはなかった。当然、父と同じ道を選び、いずれ父を継ぐのだと、信じて疑わなかった。
 だからこそ――兄の選択は、大きな裏切りと映った。
 戦の始まる数年前、兄が十歳を迎えたとき。知属の道を捨て、火属の道を選び取ったこと。
 信じられなかった。父がどれほど兄に期待を寄せていたか、知らないはずはない。それなのに。
 幼いケオルにとって、それは価値観を大きく揺るがす出来事だった。父と兄、二人の進む知属の道を尊んできたというのに、片方が、その道を無下にしたのだ。
 あまりにも身勝手だと。ああして表情一つ変えることなく、父の期待にあっさりと背き、その知性を無用とするなど。
 自分が追い求めていたものはなんだったのか。ケオルは初めて兄に、激しい憤りを覚えた。そしてそれを、そのまま言葉にしたとき。
 兄のあの鋭い目が、冷ややかに自分を捉えた。そうして兄は、ただ一言。
「力が欲しい」
 ――耳を疑った。まるで兄にふさわしからぬ言葉。そして、これまでのケオルの思いを踏みにじるような、言葉。
 尊敬していたからこそ、許せないという気持ちが強く湧き上がった。そのとき、もう兄の背を見て真似をする事はやめようと。兄を超えねばならないのだと。あの兄を超え、自分が知属神となり、兄を見返すのだと――怒りのうちにそう誓い、勉学に励むようになったのだった。
 ケオルは、今、兄の放ったあの言葉を、胸のうちに繰り返す。
 ずっと、意味が分からなかった。幼いころのように、それが間違いだとは思わないが、まるで兄らしくないと思っていた。なぜ、と、何度も考え、しかし理解できなかった。
(でも、今なら。少しだけ、その意味が分かるような気がする)
 昨夜の北での争い。知属として戦の渦中に立つと、はっきりと突きつけられる。知属には、自由に扱える「力」がないのだと。
 四属の神々が……月属神さえ、自らの意思を示すように、まるで自然に、その力を示す。ときには感情をむき出しにして、その意思の強さをはっきりと目に見える形で知らしめる。そこに何か別のものが介入する余地などなく、それは歴然と目の前に迫り、畏怖の念を呼び起こす。