睡蓮の書 四、知の章
「さて、と」中庭に視線を戻したシエンは、腰に手を当てると、わざとらしく息をついた。「どこから手をつけようか?」
ケオルもつられるように、中庭をぐるりと見渡した。見れば見るほど混沌としている。ここを修復し、元のように戻すこと。それは地属に求められる仕事のひとつである。
「シエン、その前にもうちょっと休んだほうがいいんじゃないのか? 力、使い通しなんだろ」
戦に続く戦で、体力の消耗は相当なものに違いない。ケオルが気遣うと、
「問題ないよ」シエンはいたずらっぽく笑ってみせる。「丈夫なんだ、父に似て」
ケオルは、おや、と思った。彼が自分から、その家族について語るのは珍しい。
「お前の父さん、地属だったんだよな」
階段を下り、中庭の瓦礫の間を注意深く歩くシエンに従って、ケオルも中庭に下りた。
「第一級の樹神だった。直接会ったことはないが――戦で木々や植物が荒らされ、人間たちが苦しむことを、いつも心配していたと、母から聞かされた」シエンは歩きながら話した。「価値の置き場が周りとズレていたんだろうな。だから、母と出会ったんだろうけど……。その父に、俺は似ているんだと。母は何度も、そう言っていたよ。まるでそっくりだと」
シエンの話を、ケオルは黙って聞いていた。彼がこのように饒舌になることは、珍しい気がした。いつもと違う、けれど、それが悪いことでないと思えたのは、彼の話し方が自然に感じられたからだった。語ろうとして語っているのではなく、ただ、言葉が何の枷もなく生まれているのだというように。
それからふと、シエンは足を止めると、
「昨日お前に言った、父が北だったというのは、嘘じゃないんだ」
ケオルは思わずはっとした。昨夜の言葉は、脅しやはったりではなかったのだ。
なんと答えてよいか、分からなかった。何かが少し違っていれば、自分と彼は敵同士であったのかもしれない――そう思うとどこか複雑な思いが湧き出る。けれど、とケオルは考えた。それが自分と彼の関係に影を投じる理由など、今は見あたらない。何の問題があるだろう。それよりも、友人である彼がこうしてそれを打ち明ける意味のほうが、よっぽど重要であるはずだ、と。
「……そうだったんだな」
ケオルがやっとそれだけ答えると、シエンの、新緑の瞳が、じっとこちらをみつめてきた。
こちらの言葉を待っているのか、当然あるだろうと思われた動揺を受け止めようとしているのか、それとも――まるで、自分を試しているのではないか。ケオルはなぜだか、そんな思いに駆られた。
シエンの瞳は、柔らかな影を落とし、まるで深い緑の影が重なる涼しげな木陰のようだった。属長の威を示す瞳の鮮やかな色彩、その内側から光を灯すようなきらめきは、今はずっと抑えられて、けれど確かにそれを感じさせる。地属の、過去を守り伝えるその性質が、今のケオルには、自身の過去と、それによる変化への戸惑いを見透かし、戒めているようにすら思われた。
ほんの数秒。沈黙の後、シエンはゆったりと、微笑んだ。そして、ケオルにたずねる。
「お前の父親は、どんな人だった? お前と……、キレスの」
その言葉に、ケオルの胸になぜだか戸惑いが湧く。
シエンは肩をすくめ、弁明するようにこう言った。
「今朝早く、キレスに会ったんだ」
ああ、そういうことか、とうなずいたケオルは、改めて、これまで自分と兄の父であったのが、同時にキレスの父でもあるということを考えると、どこか不思議な感じがした。
「父は――知神として忙しくしていたから、あまり会うことがなかったよ。キレスなんか、あいつ、父親のこと覚えてるのかな」
「知神。そうだったな」
シエンはつぶやくようにそう言うと、改めてケオルを向き、こう尋ねた。
「お前は、同じ知神を志した父に、似ていると思うか?」
「俺が?」ケオルは、考えた事がなかったというように目をしばたく。「どうかな……。父の考えがどうだったか、あまり個人的な記録が残っていないから」
ただ、と付け足すと、
「同じ『知神』となって、『月』の謎を解明しようとしているところは、似ていると言えるかもしれない」
その動機も、違うようでいて、同じかもしれない。言いながらケオルは思った。
それを聞いていたシエンは、その新緑の瞳をわずかに伏せ、ひとりごとのように、言った。
「たとえ同じ道を共有していても――、同じようにものを考えるわけでは、ないのだろうな」
ケオルははっと息をつめた。シエンのその言葉は、父というより、まるで、自分とキレスのことを言っているようだと、そう思えた。
シエンが何を意図して言ったのか、それはわからなかった。シエンは修復を始め、彼らはそこで別れたのだった。
(共有していても、同じでない……)
ケオルは脳裏で言葉を繰り返す。キレスと自分との間には、常にそれがあった。少なくともケオル自身は、ずっとそう考えていた。
幼い頃から、彼と自分は、姿だけはそっくりで、けれど中身はまるで違っていた。それは友人同士であった頃にも、何度も感じていた。ただこれまでは、違うという事実を知れば、それでよかった。違って当然であるとさえ思っていた。
(でも――今は、それでは駄目だ)
昨夜、キレスが吐き出したいくつもの言葉の裏側には、深い深い孤独感がその根を横たえていた。母と常に一緒にいた弟が、精神的にはいつでも独りであったということ――それは、ケオル自身にとって少なからぬ衝撃となった。幼い頃、自分こそが独りだと感じていた、その思いが覆るためだ。
今の自分には、母の傍で守られながらも孤独感を募らせ続けた彼の、一見矛盾しているように思えるその仕組みが、いくらか想像できる。それはキレス自身が話した通りなのだろう。
“俺が自分の意思で力を使えば、それは拒まれるのに、俺の意思と関係ないところで、この力は望まれる”
“そうして求められたのは俺じゃない!”
キレスは何も与えられていなかったのではない、けれど、望んだものは常に与えられずにいた。命を守られながら、その性質は否定され続け――それは、相手がずっと傍にあったからこそ、逃れるすべもなく、繰り返し刷り込まれていったに違いない。
そうして生じた孤独感を埋めるものが、あるだろうか。
たとえば、ひとりでないと思えること。心からそう信じられる何かを知ること。たとえば、同じものを共有する何かの存在を知れること。
自分は、それを示してやれるのではないか? ――ケオルは思う。双子の兄弟であるから、誰よりも近いはずだから。また、そうせねばならないと、自分がそれをせずに一体誰がやるのか、できるのかと。そう考えもした。しかし……、
(俺に、できるだろうか)
今まで、心から同じと感じたことなど、一度もなかったというのに。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき