睡蓮の書 四、知の章
二人のウシルの息子たち、その兄弟が、対峙した時。一体何が起きるのか――それを、おそらく月の姫は、何も分かっていなかったのだろう。戦が終わるとは、どういうことかを。
ドサムは奏でる指を止め、ふ、と息を吐いた。
(今は太陽神、お前に月を預けよう)
その「月」を手に入れたいと。千年前を生きた「ハピ」でなくとも、それはドサム自身が求めることだ。
彼の目的のために。月が持つその性質が、時を留め再現する力であるからこそ。
確かな「蘇生」に、それは不可欠であるからだ。
ドサムは水晶に手を触れる。ひんやりとしたその石肌の奥に、静かに閉じられた命。時を止めたようにじっとした、白い睡蓮の花。
(ホテア――お前のためにも)
愛しい存在に、戦のない世界を与えるために。自身の手で、この戦に終止符を打つのだ。
(さあ、目覚めよ、ホルアクティ)
*
太陽が惜しげなく光を注ぐ、中央神殿の中庭。
その明るさとまるで不似合いな惨状に、ケオルは思わず息を呑む。
小さな神殿ひとつ収まるのではないかと思われるほどの広大な面積に、白い石が整然と敷き詰められていたその床は、地が液化したのかと思われるほどひどく波打ち、ところどころ茶褐色のシミ――血痕が見られた。一部、大量の墨をまいたかのように真っ黒に焼け焦げた部分がある。それ以外には瓦礫が重なり、南北の柱廊の太い柱がいくつもそこへ倒れ掛かっていた。あるものは太い一本をそのまま、またあるものは一部を砕かれるようにして、大部分が崩れ去り、道を塞いでいる。
混沌としたその様子にやっと記憶が引き出される。……そうだ、昨夜。キレスの力で北に向かわせられる前に、ここは北の――生命神の襲撃を受けたのだ。本当に、それがまるでずいぶん前のことのようで、頭からすっかり抜け落ちていた。
あのあと一体どうなったのか。皆は無事なのか。不安に駆られ、振り返ったそのとき。
奥の、謁見の間に通じる扉から姿を現した、シエンと目が合った。
「……ケオル」
互いに、すこし驚いたように瞬く。
無事だったのだとほっとした気持ち、昨夜あれからどうなったのか、他の皆は無事なのかと問いたい気持ち、それらが一気に湧き上がり、ケオルは言葉に詰まる。するとシエンが、
「――昨日は、すまなかった」
新緑色の瞳に少し影を落として、そう言った。
その言葉にケオルはやっと、昨日――長すぎる夜、それが始まる以前の出来事――を思い出す。月に一度の定例議会があり、ひと月ぶりに会ったこの友人は、様変わりしていたのだった。会議の場で意見が食い違い、その後また部屋で口論し……――
あの時、自分は知らなかった。キレスが記憶を自身で取り戻そうと考えていたこと、そして、シエンがそれに気付いていたことを。キレスが、シエンにだけ話し、自分には決して話さなかったこと――彼の、封じられた記憶のこと。シエンは友人として、それを助けようとしたのだろう。止めるのではなく、助けようと……それを、キレスが何より強く望んだために。
自分だけが気付けなかった。ケオルは微かに湧き上がった感情を払うように、わざとらしく腹部をさすり、恨みがましい視線を送る。
「痛かったぞ……」
「悪かったよ」
シエンは肩をすくめ、笑った。以前の彼と変わらない、柔らかな笑み。
「ホルアクティ神は? 他のみんなも、無事なのか」
ケオルは尋ねた。謁見の間から出てきたということは、彼は王ラア・ホルアクティに呼び出されたのだろう。シエンはうなずくと、
「ああ。他もおおかた……無事だ。ラアの、姉以外は」
「……」
ケオルは顔を曇らせた。ラアとその姉が生活していた離れ屋には、今はラアが一人でいるのだろうか。
シエンは、中庭の黒く染まった床の部分を映しながら、そのことについてわざと詳しくは触れずに、続けた。
「ヤナセとヒスカは、昨夜のうちに東へ戻った。赤子が心配だといって」
「……帰さないほうがよかったんじゃないのか」ケオルは険しい表情で言う。「北の目的はキレスだったはずだ。こうしてる間にまた、襲撃してくるかもしれない」
しかしその懸念を、シエンはきっぱりと否定する。
「次の新月まで、生命神が動くことはないと。今ラア……太陽神に、そのことを重ねて言われたばかりだ」
「新月?」
一体どういうことなのかと尋ねるケオルに、シエンは昨夜のこの中庭での出来事を話してやった。
南の時神ジョセフィールが語ったこと。戦終結の鍵を握る「月」、そして、千年前の太陽神、ホルアクティの意思を蘇らせること――。
「『意思』? それはつまり、力を増幅させるということなのか?」
言いながら、ありそうなことだ、とケオルは思った。正直、それしか考えられない。北では、千年前のハピの意思が既に蘇っているという。それによって、あの――北の知神に告げられた、禁忌とも言うべき――死者の蘇生を可能にしているということならば、いくらか納得がいく。彼女の語った、生命神こそ戦を終結しうるのだと、それを確信する所以がそこにあるとも考えられるだろう。
ならばこそ、千年前のホルアクティの再生は、必至である。それは唯一の対抗手段となるはずだ。千年前の太陽神が、力を暴走させた生命神を討ったように。
「けれど、だったらなおさら、太陽神がそんな『力』を手に入れるまで、待ったりするだろうか?」
ケオルは当然生まれた疑問を口にする。
「なぜラアがそう言い切ったのか、俺にはわからないが」シエンは今きた扉を振り返ると、言った。「王として、また太陽神として、気付けるものがあるのかもしれない」
ケオルは瞬いた。その根拠を探るように、シエンを見る。
「ラアは……いや、王は、変わった。以前の彼とは、どこか違う」それを察したのか、シエンは続けてこう答えた。「俺には、彼の見ているものは、見えない」
シエンのその声色は、決して不安を意味するものではなかった。どこか眩しそうに目を細め、扉の向こうの王座にある太陽神の姿を思い浮かべるその表情には、信頼あるいは、誇り――。そうした態度に、ケオルははっきりと実感するわけではないが、説得力を感じたのだろう、ゆっくりとうなずいた。
小さな王が、偉大なその力にふさわしい認識を持つ、そのときがきたのだと。
それはまた、戦への準備が整いつつあることを示しているようにも、思われた。
いつまでも変わらないものなどない。あるものはゆっくりと、あるものは急激に、変わってゆく。変わらねばならない。
ケオルは思った。過去の記憶を戻し、見えなかったものが見えるようになった今、自分自身にもたしかに、変わらずにいられないものがある。誰にとってもそうであるように、それが良いものであるか、悪いものであるか、自身で選ぶ事は叶わない。
ただ、事実だけは変わらずそこにある。そして、時は進み続ける。
この先も、何かが変わっていくのだろう。自分が、そして、周りが――そうした予測のつかないものを、怖れている自分がいる。それは、これまで思うことのなかった不安だ。それが何に由来するのか、彼自身にもまだ、分からなかった。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき