睡蓮の書 四、知の章
キレスの力の欠け、満ちることのなかった月。それは、月がこの世に生まれ出る以前、自身の力の「かけら」を他に分けたために起こっていた。戦終結の鍵となる「月」の力が万一失われたとき、それを補い希望をつなぐものとして。
しかしそれは想定されたものとはまた違う形で、月の希望を確かにつないでいただろう。同じものを受けているために、月が唯一それを自身の支えと望んだのだから。
(かけら、か)
フチアは思う。最も身近な事象に盲目であり続けた「弟」は、嫉妬の、孤独の、依存の、親愛の、さまざまな表情を見せた。心象に強く寄り、また声がよくそれを表すために、脅迫と騙りを主とする詠唱呪文との親和性が高かった。そうした自身の質には鋭敏であり、彼は好くそれを利用した。言葉に捉われやすいその性質が、言葉の力というべき影響力を巧みにつかみとり自身のものと変える。またその様子が、心象のたやすく誤り解くさま、複雑に揺れ動き覆るさまを浮き彫りにしていた。
彼はそうして、最後まで自分を兄と呼んだ。変わり果てた姿で戻った彼の、うっすらと開かれたままの瞼を静かに閉じてやると、フチアはそれを別れの辞とした。
対でありながら互いに支えあわねばならなかった月とそのかけら。もしも自身の対と役割が逆であればどうであったろう。それを考えるとき、フチアはまた、やはり、どのようにしても対と同じにはなりえないという思いを確かにするのだった。
「流れがあるとは、やはり愉快なものだ」
ジョセフィールは言う。
「同じものを継ぎつなぎながら、同じものは二つとない」
その一つ一つを彼は愛しむ。確かな事象の中に生まれた不確かなもの。それを何より喜び迎えた。
「今世の太陽神は、自身の欲し求めるところに何より忠実だ」
ふと、フチアが言った。「お前がそうであったように」
その生き様、たどる道筋が。血を分けた息子たちよりも似ているようだと。
「それでは、王の器とはいえなかったろうな」
ジョセフィールは、嘲るよりもまるで戯れのように言いながら、にやりと笑った。
「それでこそ、私の『息子』だ」
彼の眼が闇のうちに妖しく彩りを浮かべる。死と再生を象徴する孔雀石の碧。
それは混沌を内包するもの。すべての父であり母である原初の海を、そのうちに抱いて在る。
それは自身をここに生じ、また呑み込むものである。フチアは畏敬に頭を垂れた。
――まこと、冥府におわす大神《nTr pw aA m dwAt》、永遠の時の支配者《nb nHH》。かれ、唯一のわれらが主《wa nb.n》、わが、王《nswt.i》。
今だ成されぬものを求め、その望みを我らは「名づけ《Hw》」そして「知る《siA》」。
近くあり、さりとてその深淵を確かには知らぬ。それは未知であるがゆえ、何より求めてやまぬもの。
王と戴き主と仰ぐ、かれ、原初よりひとり生じるもの《khpr wa》――
ざわり、と森が唸る。
木々の闇をすいと抜け、鳥が姿を現した。かつて赤く染めていたその羽毛は彩を失い、宵の空のように灰色をしている。
それが柳の陰に姿を隠すと、ジョセフィールの背を覆う藍染の毛織布が、音を立ててはためいた。
「さて」と、ジョセフィールは言った。「そろそろ我らが宮へ戻る時が来たようだ」
木々のざわめきは次第に収まってゆく。まるで何かに怯えるように、また厳かにその時を迎えようとするように。
やがて、縁なき人を拒むこの樹がその下に、一人の客を招き入れた。
「何してんだよ……あんたら」
双眸の紫をを炯々と滾らせ、キレスは低く声した。
「こんだけ好き勝手しといて、あとは放置かよ」
吐き捨てるように言う彼に、ジョセフィールはいつもの笑みを浮かべてこう答えた。
「片割れに封じていたかけらと共に、眠りから覚めたようだな。頼もしい限りだ」
ぴくりと眉をひそめ、キレスの眼はいよいよ窄められた。
「眠りたいのに……、横になって沈もうとした途端に引き上げられる。何度も何度も――もう、いい加減にしてくれ!」
「それを願ったのはお前の片割れであろう」
「俺は望んでなんかいない! いつもそうだ、望むものほど遠ざけられる」
「それを知りつつ望んだのだろう、お前に。兄弟でありながら、お前にはその声が聞けぬのか」
キレスはきゅと唇を噛んだ。憤怒の火は圧し留められ、ぎりぎりと胸を焼く。
「選別をやろう、キレス。介入を否とするならば、お前が望むようにしよう」
ジョセフィールが腕を伸ばす。冥府の住人である彼らの介入を、存在していたという事実を、彼の記憶から取り除こうというのだ。
しかしキレスは乱暴にそれを振り払った。
「もう、ほっといてくれ――俺に、入ってくんな!」
ジョセフィールはやれやれと息をついた。好きなようにするがいい、そう言ってまた笑う。
「あんたら勝手すぎるんだよ……」
キレスは言った。不信と憎しみがその声にのる。
「自分たちのことだけじゃないか、自分のものを守りたいがためにこっちに介入して……俺たちのためなんてこれっぽっちも考えてない。戦を引き起こしておいて、それを俺たちのせいにして――好きなときだけ手を出して、ぐちゃぐちゃに掻き回しいきやがって。関係ないくせに!!」
ジョセフィールは一度静かに瞬くと、「そうだ」と答えた。
「お前たちがこの世界で何を成そうが、わたしには関わりのないこと。死を時の永遠まで遠ざけようが、近く引き寄せ繰り返そうが、かまわん。――だが」
その紺碧まじる孔雀石の双眸が、冷然とキレスを捉える。
「わが領域を侵すことは、許さぬ」
キレスは思わず息を呑んだ。存在の威、その圧に知らず慄く。
風が、かすかに葉を揺らした。枝上の鳥が、その姿を隠したまま羽音を立てる。キレスがはっと顔を上げたとき、同じようにフチアがちらと樹上を仰ぎ見た。
そうしてキレスはゆっくりと、もう一人の男へ視線を移す。意識に入れまいとしてきたそれが、入ってしまえば途端に、抑えられていた火が煽られる。
「あんたは……」
キレスは低く声を漏らした。
「あんたはいつもそうやって、無関係なふりをして」
フチアを見据えたその眼にぎらぎらと憤怒が滾る。
「許さない。あんたが踏みにじってきたものを、俺は、絶対に」一語ずつ、楔を打ち込むように声する。「ケオルは……あいつは誰よりも嘘偽りを嫌うのに。あいつがあんたの正体を知ってたら……――」
「知っていた」
遮るフチアの言葉に、キレスは眉をよせた。何が言いたいのか、そう問うように。
「gm.f "wAD" mAa(彼はまことの"緑の石"を見つけた)――我が名のまことを解いた」
は、とキレスの目が開かれる。まさかと思った。あのときケオルが、兄も間違えるかもしれないと戯れに言った、その響きに躊躇いなど感じなかった。
分かっていて言ったのだと。これまでの振る舞いのわけも、その正体も知った上で、なお。
「……残酷すぎる」
胸がつぶされそうな思いに顔をゆがめ、キレスは強く目を閉じた。
「どれだけ残酷なことをしてきたのか……分からないんだろ、あんたには!」
キレスは叫ぶ。激しい憎悪をまとい、冷めやらぬ憤怒のうちでゆっくりと肩を上下する。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき