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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

INDEX|48ページ/48ページ|

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 ジョセフィールが口を開きかけた。が、フチアがそれを制するように声を上げていた。
「俺には関係のないことだ」
 キレスの中で何かがふつりと切り断たれた。その一言で、もう、十分だった。
「終わらせてやるよ」キレスは言った。「帰れよ。それでもう、二度と。――俺の前に現れんな!!」
 声を上げ伸ばした腕が、闇より冥い紫紺を帯びる。
 胸にまっすぐに突き出されたその腕を、フチアは退けようとしなかった。
 ずずず、と不気味な音をたて、その胸に闇が開く。それは闇が肉を食らう音。
 キレスは腕の先に力を込めた。その身体から赤いあの、憩いの色を流させることすら忌まわしいというように。血肉を食む厭な音はいっそう激しく耳をふさぐ。
 ぐらりとフチアの身体がゆらいだ。瞳はうつろに彩を失い、喉は音を結ばず、ただ息が吐き出された。
 そのとき突如、フチアの身から炎が上がった。
「!」
 それは血液ほど赤く、身体から吹き出し燃え上がる。
 視界を染める赤、あか、アカ。キレスはたじろぎ、ふらふらと後退った。その腕がフチアの身から離れると、炎はいよいよ勢いを増し、背後の柳に燃え移った。
キレスは我を忘れそれに見入る。まるでこの世のものではなかった。天を焼くかとおもわれるほど高く燃え盛るそれは、血のようにどくどくと滾り、闇にひろがる。散る火の粉はまるで紅玉髄《カーネリアン》のように、闇に溶かされ燦々と輝く――その、息を呑むほどの美しさ。
 それは生きていた。艶やかに鮮やかに、形を変え躍り上がる。その色彩だけを闇のうちにくっきりと浮かべて、それは確かに生きていた。
 その炎はドゥアトの炎である。その存在の痕跡すら残すことを赦さない、そうした性質のものである。揺らめく赤の内側で、黒い影は次第に形を曖昧にしてゆく。人の形も、樹の形も、まるでその赤のうちに溶け込んでしまった。小さな黒い粒となったその残骸は、寄り集まってひとつとなり、鳥の姿をかたどると、炎のうちを遠く羽ばたくように、小さく小さく溶け去ってしまった。
 灰ひとつ炭ひとつ残らなかった。
 闇の森の奥深く、ぽかりと開いた木々の間に、
 キレスはただひとり、茫然とたたずむ。 
 何もなくなってしまった。焦げ痕のひとつもない。まるで夢か幻であったかのように、そこはがらんと空いている。
 キレスはひとりだった。そこに唯ひとり、彼だけが残っていた。
 まるで時の流れがすっかり止められでもしたかのように、キレスは動かなかった。表情も変えず、ただ立ち尽くす。
 風が凪ぎ、草木も虫も音ひとつ立てぬ静寂がそこを包んだ。
 何も、ない。誰も、いない。
 ひとりきり、だった。

 ――……、ひとりだと。

 ふいに、どこからか声が届いた。

 ――寂しいだろ、ひとりだと。
 
 耳慣れた声。いつか聞いた言葉。
(ひとり……)
 ひらかれた紫の瞳が、ゆっくりとまたたく。
(寂、し、い)
 あのとき聞いた言葉、胸に落ちて染み込んだその形。乾いたと思っていたそれが、再びじわりと浮き出るのを感じた。
 それはカラカラになった胸のうちを、静かに広がり満ちてゆく。
 すると、ふっと意識が自身の内側を泳いだ。何もないその底にまっすぐ向かい、腕を伸ばす。
 自身のうちのずっと奥。闇を生み出すその陰に隠れて見えなくなっていた、一番底に閉じたもの。その境に、指先が触れた。
 重くぴたりと閉じていたその、小さな蓋が、ついにぼこりと持ち上がる。
 覗き見るとそこには、小さな小さな粒ひとつが、大事に大事に隠されてあった。
 途端に、体の奥底からなにかが、怒涛のように突き上げる。
「いやだ……」
 熱い何かに押し出されるように、声が漏れる。
 ……もう、止まらなかった。
 キレスは声を上げて泣いた。幼い子供のように、嫌だ、嫌だとわめいた。
 両腕をだらりと垂れ、喉を仰け反らし、ぼろぼろ涙を流しながら、何度も。
 まるで自分であったもの、青年の姿をした被り物がすべて剥げ落ち、溶け出してゆくようにかんじた。
 小さな幼いものだけがぽつんとそこにあった。ずっと隠していたそれこそが、自分自身のほんとうの姿なのだとおもった。
 自分自身で隠しながら、隠したことすら忘れてしまったそれが叫ぶ。存在を認めさせるために。二度と、隠されはしないというように。
 そうして何もかもが流れ出、尽きてしまったのだろうか。小さく漏れていた声にならない呻きも、次第に消えていった。
 キレスは草の上に小さく身を縮める。激しい慟哭に疲れ果てたのか、いつの間にか昏々と眠りに落ちていた。


 ――ざあんざん、ざざあん。
 それは柳の大樹の葉擦れの音。
 しなやかに垂れるいくつもの枝葉が、隣のそれと重なり、絡んで、またはなれる。
 世のはじまりから綿々と続いてきた、何十、何百もの命。連なる緑葉はその証。生きたものの名を、時を、刻んでゆく。
 自分の名はいつ、そこに刻まれるだろう。そう思いながら、ぼんやりと眺めていた。
「ああ、やっと、見ることができた」
 いつの間に隣に立ったのだろう。それはケオルの声だった。
「お前が見ていたものを見られて、嬉しい」
 そう言って彼は笑った。
「……けれど、永遠に失った」キレスが言った。
「そうじゃない、永遠を手に入れた」ケオルが言う。
 変わることのないものを、決して離れることのないものを、いま確かに得たのだと。
 キレスは黙って、手の内に握った小石を見つめた。それがぼそぼそと煤を吐くさまを、じっとその目に映した。
 小さな小さなその石、その有り様は、生きている自分の姿だ。そう感じ、ぎゅうとそれを握り締める。
「生きていく限り、これを捨て去ることもできない……」キレスはうつむきつぶやいた。
「それがある限り、お前には届く」ケオルは言った、「この声が届く」と。
  ――慰めを必要とするたびに、問いかけ訊ねるそのたびに、
  まこと《khrw-wr》「大いなる声」の名で、
  この声が呼びかけよう。この声で応えよう。
  お前の名、《Krs》「死を悼む」その嘆きが、
  深い淵へと沈みこみ、溺れることのないように。

 その命が続く限り、永遠の時を共にゆける。
 この大樹の下に、ふたたび戻り来る日まで。


        四、知の章 おわり