睡蓮の書 四、知の章
キレスは、身体を仰け反らせ、手足を激しく痙攣させていた。
ケオルは呼吸を忘れ、はっとその目を見開く。このままでは――そう考えた直後、キレスはだらりとその四肢を垂れた。
ひゅっと呑み込まれる息。脳裏をよぎる不吉な一字。
ケオルは反射的に、非難の目をフチアへと向けていた。憤怒の炎がぐっと煽られ、今にも感情に囚われた語句が口をついて出ようとした。
が、そのとき、まるで予期しえぬものを捉えた衝撃に、ケオルは言葉を失った。
躊躇――フチアの、あの仮面のように変わらぬ表情に差したそれを、見てとったために。
それが何を意味したのか。目的の完遂が不可能になることを考えたのだろうか、あるいは――それは単にこの異質な空間が見せたゆがみであり、幻だったのかもしれない。
それは、しかしほんの一瞬のことだった。フチアは途切れた詠唱を継続し――あるいは別の文言を挿入したのだろうか――、するとキレスがびくりと身体を揺らし、うっすらとその瞳が開かれる。そうして、何事もなかったかのように、この“儀式”は続行したのだった。
上空にはふたたび繰り返される責苦に喘ぐキレスの姿。しかし今ケオルには、目の前の出来事がどこか遠いことのように感じられた。まるで見えない幕が引かれたかのように、それらが届いてこない。なにかがじっとり胸を占め、それ以外を考える隙間がない。胸を占めるもの、その正体が何であるのか、いや、正体をつかもうとすることすら考えられなかった。
そのうちに、球体を取り巻く闇が、ごうごうと渦を巻きはじめ……、
その勢いは次第に激しく、大きくなり、ついに中庭じゅうを満たすほどに膨れ上がった。
ケオルはとっさに顔を覆う。渦巻く闇は球体を芯に巨大な柱となり、天を貫かんと立ち上がる。
そうして、再び激しい振動を伴って、それは突き上げるように天へと向かい、そのまま、天に呑み込まれていった。
闇がひとつとなり、静寂が、おとずれる。
ケオルは腕を解き、暗天を仰いだ。
と、そのとき、天が低く轟き、そこから、長く尾を引いた四筋の黒いいかずちが、激しい勢いで降り注いできた。
息をつめ映したそれは、まるで、先ほどこの神殿の一室で「見た」ものと同じ。異界を構成する巨大な四匹の黒蛇――原初の創造主らの姿。「四」と分けて認識されたその瞬間に時を「はじめ」、最後にはまた一つとなって時を「おわる」、混沌の主。
それらは猛烈な勢いでただ一点目掛けて突き進み、そして――、
あっと声を上げる間もなく、キレスの体でひとつに合わさった。
その衝撃で、キレスの身体は弾かれるように外へと投げ出される。そして代わりに、闇が球の内側に閉じられ、しばらく互いに結びついては離れることを繰り返していた。が、やがて緩やかな動きを残して、そのうちにおさまったのだった。
ひっそりと揺れる闇を閉じた球体。
ただそれだけを残して、中庭が、神殿が、すべて元の通りに戻された。
あの、空間を呑み込むような異質な影響は消え去り、夜の暗紺の中、木々の影がさわさわと揺れ、虫たちの声が戻る。
空には、真円を描いた月が、清かに輝いているばかりだった。
ケオルははっと我に返る。上空の球体に、キレスの姿は既にない。あわてて地上に目を馳せると、そこにはジョセフィールの姿だけが残されていた。
キレスはどこへ消えたのか。この中庭の暗がりのうちのどこか、それとも、向こう側にある彼の自室だろうか。ケオルは中庭へ開いた階段に足を踏み出した――そのとき、
「立ち入るな」
低く届いた牽制、その声に、ケオルの身体がその場に縛られる。
怒鳴るでもなく、ただ短く発したその言葉の主は、ジョセフィールであった。
離れていても感ずる、逆らうことのできない威圧感。暗紺のうちにたたずむその姿は、まるで闇を積み上げて人を象ったかのように、その形がひどく曖昧に感じられた。あの、キレスを取り巻いていた闇と同じ、蟲が無数に寄り集まるようにして、ぞわぞわと不気味に形を変え続けているような。
うごめく影のうちからこちらを捉えてくる、孔雀石の双眸。それは、腐敗と再生の二極を同時に示すもの。
西方の者どもの筆頭者《ケンティ・アメンティウ》。神秘なるもの《パ・シュタアイ》。
下天の支配者であり、死人たちの王。彼は、冥王ウシルであるのだ。
その、濃淡妖しく混ざり合う碧色の瞳に一度、ゆっくりとまぶたがかけられると、身を縛る力が解かれ、ケオルは見えない壁に弾かれるようによろめき後退した。
と、かしゃりと音をたて、何かが足に触れる。
ケオルはそれを拾い上げる。――ビーズの飾り帯だった。月光が、紅玉髄の緋色を透かして照らし出す。止め具に刻まれた名を見なくとも、彼にはすぐに分かった。それは、キレスの首元を飾っていたものだ。
(どうして、こんなところに――)
「思うようにはいかぬものだ」
はっと顔を上げ、声の主……闇にたたずむ人物を、映す。ジョセフィールが、天を仰ぎ見ながら、ひとりごちた。
「満ちるべき月が、その欠けを完全に補いきらぬとは。――わが友も、それを予測することはかなわなかったようだ」
欠け、満ちるべき月。それは、キレスの記憶……いや、奪われていた力。
ケオルもまた、上空の球体を見上げる。あの中に閉じられた闇は、キレスの力が具現化したものなのか。
「まあ、よい。どうにか足りはしたのだろう」
ジョセフィールはそう言って微笑する。
「戻したはずの力を……また取り上げたのか」
ケオルの声はかすかに非難めいていた。繰り返し苦痛を強いられる弟のことを考えたために――けれど、そうして「力」の影響を脱することは、もしかしたら、歓迎すべきことかもしれない。そうも思われた。
「はなからそのつもりだ」ジョセフィールは淡々と答える。「『月』自身が、それを求めたのだからな」
「キレスが求めたわけじゃない」
ケオルは思わず釈然としない思いを口にしていた。しかし、
「変わらぬ。彼自身、知らぬことではない」
答えはそれだけだった。
それからジョセフィールは、短くひとつ息をつくと、神殿奥に目を馳せ、
「満ちていれば、憂慮することもなかったが……」表情険しく、告げた。「意識が戻る保証もない」
はっ、とケオルの瞳が開かれる。今、なんと言ったのか?
(意識、が――)
あの、黒いいかずちを受け、キレスの身体が宙に投げ出される光景が、脳裏によみがえる。
弾かれるように、ケオルは駆け出した。
中庭を迂回し、その向こう側にある個室の一つへ向かうと、その扉を勢いよく開く。
奥の部屋、亜麻布の天蓋の中。寝台に横たわるキレスはまるで、人形のようだった。
かけられた毛布からのぞく肌は、血が通っているとは思えないほどに土色で、長い黒髪は艶を失って寝台から垂れていた。唇は白く乾き、まぶたは固く閉ざされている。
まさかという思いで、その腕に触れる。その冷たさ、硬さに、慄きが胸を駆け上がる。
手を退け、ケオルは呆然とその場に立ち尽くした。
(分かってたっていうのか……こうなることを)
いつもそうだ。自分は、自分だけ、何も知らない。彼が知っていることを、何一つ。自分は気づきもしないのだ。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき