睡蓮の書 四、知の章
兄のことも、だから彼は呼ぼうとしなかったのだ。ただ一度だけ言葉にしたそれは、自分を気遣ったために。
(そんなことを、望んだわけじゃ、なかった――)
やりきれなさに顔を覆う。その手の内から、ビーズ帯が滑り落ち、かしゃりと音をたてた。
ケオルは力なくそれを見遣る。紅玉髄のビーズ帯。いつでも彼の首元を飾っていたそれが、あの場所で偶然外れたというわけでもないのだ。考えてみれば分かることじゃないか。彼は、自分が近くにいると気づいていたに違いない。
(形見の、つもりかよ)
どうしようもない腹立たしさと悲しみとが、同時に湧きあがる。胸を締め付けるそれらを振り払うように、ケオルはビーズ帯をつかみ取ると、彼の首元に戻そうとした。
――と、そのとき、指に思いがけないものが触れる。
熱。頸部から伝わる、ぬくもり。
突き動かされるようにキレスの脈をとる。頸部からでもやはり拍動を確かにはできなかったし、他のどの場所に触れてもひやりとしている。ただそこだけが、不自然に、あたたかい。人為的なものに相違なく、それが誰によるものかは考えるまでもなかった。
(兄貴……)
冷えた身体を暖めようとする意思。あの人が、回復の可能性を見ているということ。その意味はあまりに大きい。
これは死ではない、仮死なのだ。――そうと知った途端、安堵と同時にはっきりと、あるひとつの事実につきあたる。
兄があのとき一瞬見せた表情、その意味。知っていたはずのこと、けれどずっと曖昧にしてきたこと。
それが臓腑に染み入るように確かにされると、何かが体中からすとんと落とし去られ、代わりに底から湧き上がった感情が、全身をべっとりと覆い尽くした。
――そうだ、知っていた。誰にも関心を寄せない兄が、キレスにだけは違うということを。
それは戦のあと、キレスと「ふたたび」会ったときからずっと感じていたことだ。それを自分は、キレスが自分と似ているためだと考えた。兄の視線の先に自分があることはないのに――それでも他に理由がないからと、そう思い込んできた。
その誤魔化しが、いま焼け落とされ省かれてゆく。
彼が「月」であるために? しかし役目を終えたはずの今も変わらないのはなぜか……いや、理由なんてどうだっていい。
弟を映すケオルの眼が、しだいに小さく絞られてゆく。
……母だけでなく、兄までも。
自分が求めてきたもの、そのすべてをお前は手に入れる。
事も無げに手にしながら、こんなものでは足りないというのだ。
お前は自身の問題のために負の関心を大いに引き受け、しかしそこに正が混じることを認めようとしない。
お前の影の大きさに、自分の存在の小ささを知る。お前が激しく求めるたび、自分にはその資格がないと知る。
同じであったことなどない。同じになど、なれるはずがない。どんなにそれを求めたって……。
醜く自身を染め上げる妬みの感情。――彼が苦しむたび、それを知るたび、我が事のように哀れむのは、きっとそのためなのだ。
彼の苦痛を哀れむのではない。彼が苦しむことで、自身の欲求を抑制する、その不条理を哀れむのだ。醜い感情を抱いた自分自身を裁く、その苦痛を哀れむのだ。彼と比較することで、自身の苦しみが、その感覚が矮小化される。その不当を、哀れむのだ。
(断ち切りたい――こんな、繋がりなんて)
しかしそれは、過去したように、彼を拒絶することではない。
(拒絶などしない。……できるわけが、ない)
罪悪感のため? 同情心のため? ――いいや、違う。
いま、自身の欲求を満たすもの、関心を得られるものが、彼であるために。
求められることは、存在の許可になる。今はただひとつとなったこれを、ずっとひきつけておかねばならない。求められている現状を、長く留めなければならない。
だからこそ、彼を理解したいと願うのだ。実際には理解を拒む心があるというのに……、矛盾を知ってなお、それを求めてやまないのだ。
共有するもの――それこそが、彼が自分に心を寄せる理由であるために。
(けれど、あの、血に浸るときに得る感覚も……本当は、同じじゃない。同じであるはずがない)
キレスの感覚が自分に分からない、それなのに、同じであるわけがない。表出がそっくり同じであるだけで、中身はまるで違うのだ。それは互いの外見と同様に。
その勘違いを、そうと知りながら、頼られることを望んで見ないふりをしている。これが虚偽であるのだと、そう知りながら、すがっている。
(手放したくない……だから、知れてしまうことを、恐れてる)
けれど、もし――。
もし、それが明らかになってしまったら。
拠るべきものなど何もないのだと、分かってしまったら。そうしてキレスが、自分を求めることをやめてしまったら。
自分は、どうなってしまうだろう。
きっと……、キレスを突き放し、彼を憎み、わざとひどく傷つけるだろう。過去にした以上に。
(そうして、何度も、何度も。おなじことを、繰り返すのか――?)
互いに相手を妬み、相手の得たものを望み、しかし決して手に入れられはしない。
けれどまた、互いに相手を求め、そこに安住しようとする。
もたれかかり、よりすがり、そうして互いに喰らい合って生きるのか。
何度、何を求め、得られても、心が安らぐことがない。相矛盾する感情に翻弄され、苦しみから解かれることがない。
それは、互いに虚偽を見ているために。
本当の問題を、知ることがないために。
それを知ることで、互いに、拒絶されることを何より恐れるために。
(そうだ……本当は、わかってる)
道は、ひとつしか、ないのだと――。
そうしてケオルは、静かに口を開くと、声低く、唱え始めた。
キレスが、彼が生きるために。消えかけた命の灯を、ふたたび確かにするために。それは小さく、しかし確実に。横たわる弟に届ける、言葉の連なり。
(呪いのようだと。お前、そう言ったよな)
そうだ。これは、呪いだ。……ケオルは思う。
生かすことは、お前自身をより苦しめることだと知っているから。それは死を請うのと等しく、残酷なことだろう。
だから――これは、呪いなのだ。
まだ安らぎなど、自由など、与えてやりはしない。この地に縛りつけてやる。お前はそうして、生き、問い、そして知るんだ。
自身で成さねばならない。他の誰にも、助けることなどできはしない。
交じり合い、突き放し、傷つけながら、手を伸ばす。互いにつき合わせ、投影したものを見つめ、その醜さを互いのうちに見ることでしか、かなわない。
苦しめている事実を。そうでない事実も。
そのために、死の際から引きずり上げ……、何度も、何度でも。
声をあげて、呼びかける。
知ること。――それだけが、虚偽を断つただひとつの道であるのだから。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき