睡蓮の書 四、知の章
中・知ること・4、呪い
不安に駆られ立ち上がると、ケオルは木々の影に目を凝らした。
キレスが、近くにいるのではないか。そうだと思うことも、またなぜそれが不安を呼ぶのかも、分からない。何も根拠などない。ただ、心がざわついて仕方がなかった。
(あの、樹に)
居るかもしれない、そう思ったが、それがどこだか分からない。
夜の森は相変わらずうっそうと葉を茂らせ、天に掲げられた満月を覆い隠していた。地に落ちる影だけがその存在を知らせる。
そのとき、ばさりと羽音をたて、何かが視界の端を切り裂いた。
紅の筋を引いて天に駆け上がるそれは、あの、赤い鳥。
ケオルは駆けだしていた。
鳥は闇に溶けたのか、その後はもう、どこにも見当たらなかった。そうして姿を求め駆けるうち、神殿まで戻ったらしい。木々の向こうに、石造りの柱が垣間見える。
キレスはここだろうか。ぼんやりと眺め見たケオルは、直後、我が目を疑うように眉を寄せた。
神殿のようすがおかしい。どこか異様な雰囲気に呑まれている。
自分の意識がどうかしてしまったのかと、はじめは思った。神殿全体が、おぼろな、光とも闇ともつかぬものに覆いつくされている。まるで異質な空間に迷い込みでもしたかのようだ。
胸のざわめきがいっそう強まる。ケオルは慎重に神殿へと踏み入った。
列柱の間の向こうに、中庭へと開かれた戸口。その長方形に切りとられた暗紺の中に、人影が見える。ジョセフィールとフチアだ。けれどそうと認識した途端、影は人のものではなくなり、闇に熔け自在に形を変える曖昧なもののように感じられた。ケオルは息を詰める。――アム・ドゥアト《冥府の住人》……。
その何ともつかぬ二つの影は、眼光ばかりがぎらりと灯り、その視線は上空に注がれていた。ケオルはためらいを制し戸口をくぐりぬけると、中庭を臨んだ。
巨大な球体――神殿中を染め上げる奇怪な闇の源が、この中庭に掲げられていた。ぞわぞわと、蟲が無数に寄せ集められたかのようにうごめく黒の集合体。ところどころ引き千切られたように穴を開けたそれが、不気味に貼りついた球体。
キレスは、その内側にいた。
とりまく闇のため、様子がはっきりとは分からないが、彼は体を丸め、そこに浮かんでいるようだった。まるで水の中にあるように、長い黒髪が宙にただよう。……眠っているのだろうか。
そのとき、球体を覆う闇が、ずずず、と不気味な音をたて隆起した。
はっとして地上を見る。一見何の変化も見て取れなかったが、目を凝らすと、フチアが何かを唱えているのだと知れた。
(何を、する気なんだ)
闇が、唱えられる言葉に煽られるように、動きを増してゆく。ケオルはじっと耳を澄ませたが、その声は言葉として届かず、うごめく闇の這うような音と混ざり合ってあたりを満ちているばかり。
低くとどろき、ぶつぶつと音を立てる闇。沸き立ち、奇妙にうごめくもの。焼けただれ腐敗しかけた肉塊のごとく醜悪なそれに、顔をしかめずにいられない。その奥で、キレスはゆっくりと肩を上下させ、深く呼吸を繰り返している。肩の揺れはそれと分かるほど大きく、そうして何かをじっと耐えるか、蓄えるかしているようだった。
やがてその身体が、徐々に緊張をはじめた。腕が引き寄せられ、寒くてたまらないというように身を縮める。心なしか全身が小さく震えているようだ。
瞬きも忘れ、ケオルはそれに見入る。
苦しげにすぼめられたキレスの目は、わずかな隙間から紫の光をちらちらとにじませていた。うつむけた顔をゆがめ、口から何度も息が吐き出されている。
と、突然、彼は弾かれたように顔を引き上げた。息苦しさに耐えかねたというように――そうして宙に遊ばせた黒髪が幾筋も、蛇が一斉に這い出るようにさっと広げられた。
その瞬間、彼の体から煙が立ちのぼるようにして、闇が、生じた。
絶句した。キレスの身体から放出されるそれは、球体を覆うあの、醜悪な闇と同じもの。地上にあるフチアはそれを、言葉で作り上げた見えない糸で絡め取り、無理やり外へと引きずり出そうとしているようだった。そのたびキレスはまるで生きたまま肉を引き剥がされるかのごとく、激しく悶え、声にならない叫びを上げる。
瞬きさえ憚られるようなその光景。キレスの悲鳴が、聞こえないはずのそれが、脳天を貫く。そのいたましさに、胸が潰されそうになる。
ケオルは思わず目を逸らした。そうして、絞り出すように息を吐く。
どうして、と彼は思った。
……なぜ、いつも、キレスばかり。彼ばかりが、なぜこんな仕打ちを受けねばならないのか。
自分ではなく、彼ばかりが。決して、自分がそれを代わる事はない。できはしない。
“何もかも逆だったら良かったんだよ!”
“俺に押し付けやがって、何もかも――”
“あいつらが守りたがってるのは、俺じゃない”
“道具のようなものじゃないか!”
彼の放った言葉が次々と浮かび、一つ一つが針のように鋭く胸を突く。ケオルはたまらず目を閉じた。
そのとき、かあんと脳天を打つように鳴り響く言葉があった。
“――一番辛いのは、あの子自身なのよ”
母の言葉。たった一つ、それだけで、ざわざわと胸のうちをめぐる感情をざんぶりと呑み込んでゆく。
(……)
ケオルは開いたその目に、フチアを映した。
胸の奥が蒸しあがるような憤怒が湧いた。これまで、ずっと苦しめられてきたのだと。自分は――いや、キレスこそは、ずっとそうであったに違いない。
今もこうして、彼は道具のように扱われ、この人はそれを当然のように受け止めているのだろう。
重ねた苦しみを知りながら、なお強いる。そうして傷ついたものを更にずたずたに傷つける。その、感情のない眼で。捉えるものは何であれ同じ。人も物も、ただ対象としてあるだけなのだ。その傷の数を、その深さを、知ることはない。必要もない。
この人は言うだろう。それは目の前の確かな事実に比べれば、まるで卑小なことであると。
そうしたものに、人は簡単に惑わされ、踊らされ、事実をゆがめて認識する。ないものをあると思い込み、そうして作り出されるものに、振り回されてばかりいる。冷静さを失い、判断を誤る。目の前の事実をそれと認めることも忘れ、幻をつかもうとする。
それは実に、愚かなことだと。
(そうだ。……その、通りだ)
いつでも、そうだ。形のない不確かなものに、すぐに影響され、突き動かされ、――そうしてたくさんの事実が覆い隠される。たくさんの虚偽が、事実とされる。
うちにある「とらわれ」。ないはずのものをあると見る、そうして多くを狂わせる、災いの種。
引き剥がそうとすればするほど、それに絡み取られ、翻弄される――
(!)
突然、ずんと腹を突き上げる振動。
上空を仰ぐ。あの闇が、これまでの倍に膨れ上がっていた。
何が起こったのか。増大した闇は無秩序に球体の側面を走り、衝突し、散り散りになる。それらは自らの動きに追いつかない様子で、ぶちぶちと穴を広げてはまた重なり合う。湧き上がり、垂れ下がり、引き上げられ、絡み合う。暴れて宙に放たれたものが、いくつも惑うように行き交っている。
目を凝らし捉えた、その奥。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき