睡蓮の書 四、知の章
理解をしてやろう、受け入れてやろうと言ったところで、こうした快を「抑える」条件付なのに違いない。そのほうが互いにとってよいのだと、それをしさえすれば、仲間に入れてやるのだぞと、寛容さを見せ付けるように言ってくるに違いないのだ。
冗談じゃない。仲間に入れてもらう必要などない。自身を曲げ、その形を無理やり望まぬものへと変えねば受け入れられないというのなら、いっそ遠ざけてもらったほうがいい――“互いのために”。
相容れない。結局そうなのだ。今のままでいい。
(あいつ、いつも兄ぶってさ……。なんにも分かってないくせに)
どうにかしなければ、変えなければと一人奔走して。
自分はこれで、もう、じゅうぶんなのだ。変化など望んでいない。何かが、ほんのわずかでも変わってしまえば、すべてが崩れ去ってしまいそうで――。
傍にあるものをそのままに。今はもう、それを疑おうとも思わない。……疑わなくて済むからこそ。
(何もいらない。これ以上は)
キレスは首元に手を伸ばすと、静かに目を閉じた。
規則正しい拍動――そう、この音。他は要らない。これさえ与えられるのなら。
(ほんと、わかってない……)
キレスはそっと口元を緩める。
何より望むあの色と、同じものが作り出す音。ひとりでいる時にはひどく耳に付くそれが、望む相手のものであると、まるで逆に、慰めとなる。
ずっと聞いていた。この数日間、繰り返された流れの中で。
過去のように、それが失われるかもしれないと恐れる必要もなかった。必死で掴み取ろうとせずとも、そこに行けば必ず手に入った。望むままに、与えられた。
それは思い起こすたび、胸をくすぐるような――幸福。……そう、幸福だった。
「……」
――羽音を、聞いた。
温かくにじむ胸のうちが、さっと冷めてゆく。
キレスはゆっくりと、まぶたを押し上げる。あたりはもう宵闇に包まれていた。
ふいに思い立ち、首元にもう一度手を伸ばした。紅玉髄のビーズ飾り――幼いころからずっと身につけてきたもの。ひとりだった自分を、奮い立たせてきたもの。
キレスはそれを外し、手にとった。連なる赤、暗灰色の中にうっすらと灯るその彩。
指を折り、そっと包みこむ。祈りを、こめるように。
*
叩いた扉の向こうから、返事はない。
そのまま立ち尽くしていたケオルは、ぴりと頬に走る痛みに手を伸ばす。
不意打ちを食らい、思わず力が漏れ出たといった様子だった。……無理もない。キレスは不変の日常に浸りきっていた。それを壊すのは酷だと、分かっていた。ただ、気遣う余裕などなかったのだ。
頭の中をさまざまな言葉が占めて、滅茶苦茶に行き交っていた。それらに正しい道順を示し、解釈していかねばならなかった。そうした作業を経て、紙の上には順序良く並べられたそれらは、しかし頭の中では依然として定まらず、浮かんでは打ち消し、繋いでは引き離ししながら、その全容を自ら曖昧にしているようだ。
ここに来ればしかし、それが収まるだろうと。ケオルはそう期待して、兄のもとを訪れた。
いや、それを期待と言っていいのか分からない。実際、戸を叩くことを何度かためらった。返事がなかったことで、緊張が解けたように思えたくらいだ。……けれどそのために、どうにか絞られていた焦点がゆるんでしまって、脳の表面にまた言葉がざわざわと湧いて出る。それらを浮かぶにまかせ、意味など一切考えずに――ケオルはただぼうっと立っていた。
どれくらい経ったか、すぐ後だったかわからない。彼の背後からぬっと伸びた腕が、目の前の戸を開いた。
驚いて見る。兄が戻ってきていた。いつもその人を呼ぶ声が、しかしそのとき出てこなかった。
兄はいつものように通り過ぎる。と、内側からわずかに扉を開き留めた。ケオルはそれを引き受け、追うように部屋へと入った。
兄の部屋には物がない。まるで主のない部屋のようだ。沈みかけた陽の橙色をした光が、格子窓を通り、埃っぽい部屋に筋を引いて差し込むと、それはいっそう寂しく映る。もうひとつ扉を開いた先、奥の広い部屋も、最低限の調度品のほかは、横に板が掛けられただけの棚数段に、書物がぽつぽつと置かれているだけだ。椅子や机はあるが、その上に書版も墨皿も、それどころかペンのひとつ置かれてはいない。
ケオルは見慣れたはずのその部屋をぼんやりと眺める。改めて見ると書物のほとんどが、彼自身が書き写し、兄に渡したものである。そのことに思い至ると、頭の中のざわざわとした雑音を、胸のほうからのぼってきたものが、さらに忙しくかき回した。
「予言書か」
珍しく兄から声をかけられた。ケオルははっとして、そうだと答えた。
それから兄は、いつものように腕を組み、何もない部屋の隅に視線をやっていた。こちらではなく別のほうに関心を向けている兄が、何を見また考えているのかを、ケオルは知らない。これまでもずっと、知らずにきた。聞く態度というにはあまりにも意識が離されている様子であるのに、話せば確かに聞いている。それが兄のやり方なのだと、自分を納得させてきたのだった。
長く沈黙したためか、兄フチアが促すように視線をよこした。ケオルはちょうどそれを避けるように、手にしたパピルスの束に目を落とす。そうして、一番上に書き記した文字を読み上げた。
第52節
地より伸びゆきし腕のうちに 孕みたるもの
二色の玉を産み落とさん
欠けたるもの 満ちみちて
再び主の宿となす
「問題の第51節に入る前に、いくつか整理しておきたい。
まず最新の52節。これが、今実現しつつある事実……つまり千年前のウシルの息子たち、ハピとホルアクティの“再生”を示していることは、間違いないと思う。
三行目、月の記憶を表していると考えられていたこの部分は、実際には“欠けたものがまた満ちる”月の性質を通して、再生する魂を表現していた」
取り除かれ、存在を欠いていた二神の魂が、再び現れることを。
「そして二行目。この“二色の玉”にあたる部分は、過去に別の言葉で示されている」
第4節
門をくぐりゆきし王の魂、
イチジクとブドウの実を食して戻らん
「南方に育つイチジクの木は、太陽神の聖樹として知られる。その実が太陽神の魂の喩えであることは、これらのことから想像される。ここでは、相対する生命神の魂を、北方に育ち青い実をつけるブドウに喩えている」
話しながらケオルの脳裏にはあの、赤い羽毛の鳥が浮かぶ。昨夕キレスは言った。あの鳥が、二つの魂を喰らったのだ、と。
「ところで……死者は星になる、という言い伝えがある。ひとの霊魂《バー》はいつしか聖霊《アク》となり、夜空に灯る。それが星と呼ばれるのだと。――その、聖霊《アク》になるため、天高くのぼるために、霊魂《バー》には、翼があるのだという」
翼あるもの、鳥。――あの赤い鳥は、霊魂《バー》の顕現であるに違いない。あの鳥と、ウシルの息子たちが結びついたとき、彼はそれを確かにしたのだった。
「北の知神は言った。いにしえの生命神ハピは、既によみがえりつつあるのだと。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき