睡蓮の書 四、知の章
ケオルはきょとんと瞬いた。否も応もないうちに、キレスは勝手に机上の書を除け、ゲームの盤を置いた。
ずいぶんと強引、そして唐突だ。何かあったのだろうか? しかし訊ねる間もなく、ケオルはキレスに急かされるがまま、賽をふった。
――ゲームはあっという間に終わった。
「じゃあ、俺の言うこと、聞けよ」
キレスが言った。ケオルはまだ呑み込めないといったようすで、盤を眺めている。
確かにキレスは賽の目の運がいい。これまでもそうだった。けれど、今のは、あまりに出来すぎている。見れば誰だってそう思ったろう、それほど「完璧」な目、無駄のない目だった。ここまで徹底されると、頭をひねることも無意味なほどだ。戦意喪失どころではなかった。操作した可能性はあるだろう、彼の力なら可能なはずだ。
しかし、責める気は湧かなかった。これほどあからさまな方法をとったことは、これまで一度も無い――つまり、ゲームは「口実」でしかないのだ。
いったい彼は、何をしようとしているのか。自分は何を、望まれているのか。
「行くから、ついて来いよ」
キレスは立ち上がりざまに、ケオルの手を引いた。
どこへ? 訊ねるまもなく、彼は術を用いて夕暮れの森へと現れた。
空を隠すようにして覆う、深い緑の葉。――そこは、南に違いなかった。
「ほら、こっち」
キレスがすいと宙を行く。目的の場所は、そう遠くなかった。
木々の向こうに、ひらけた空間があった。その中央には、周囲と種類の違う樹が、たったひとつきりで立っている。
垂れたその枝の陰にキレスが姿を隠す。ケオルはそれを追いながら、大きな傘のように覆うその樹を、眺めた。
先のとがった、短剣のような細い緑葉が連なり、垂れ下がるその様子。縦にしわを走らせる黒々とした幹。
「……柳……」
年月を重ねてはいるが、まだ樹の寿命から見れば比較的若い。一本きり、他を寄せ付けぬようすで立つその姿は、凛然としたようすで、この森の王――いや、まるで違う次元に存在しているよう。
緑のカーテンをくぐると、キレスは高いところに身を留めたまま、こちらを見下ろし、誇らしげに笑みを浮かべている。
「これ……、お前が言ってた“キポルオの樹”?」
キレスがうなずく。――知らなかった。こんな空間が、こんな樹が、この森にあったなんて。
「さっき、夢に見たんだ」
樹の枝に触れながら、キレスが言った。
「お前がさ、この樹の下にいるの。樹が、もっと大きくなってて――だから、何年か後のことだと思う」
そうしてケオルを向くと、
「な、安心しろよ。俺のこういうのって、外れたことないだろ」
……言葉が、出なかった。
以前、戦への不安を吐露したことを、キレスは覚えていたのだろう。それを、自分だけの秘密を打ち明けるのと同時に、こんなふうに気遣われるなんて。
ありがとうという言葉を、声にできなかった。ケオルは結局、ただうなずいて応えた。笑ったつもりだったが、うまく笑えたか分からなかった。
「こいつ、もっと幹がぼこぼこして、葉の色もこんな綺麗なのばかりじゃなくなって……お化けみたいになるんだぜ」
キレスはケオルの傍に降り立つと、そう言って可笑しそうに笑った。
ケオルは柳の樹を見上げる。キレスの見たという未来を想像しながら。
垂れ下がる枝葉に包まれ、その空間は薄暗く、そしてずいぶんと静かだった。微かに、葉擦れの音がするばかり。
(柳。チェレト《Trt》、か。――どこかに、あったかな)
静寂のうちで、ケオルは無意識に、いつもの習慣を繰り返す。
(――ああ、第2節の、ティリ《tiry》「門」と、少し近いかな……)
古の四の主、王を喰らい
その支えの心臓を断ち割かん
王、その肉体をして門となし、
その左右に支えを得ん
最近書き写したせいか、すらすらと出てくる。われながらすっかり染まってる、とケオルは思った。
(……「支え」……)
そうしてまた、小さな繋がりから第51節の謎を追おうとする。
(何か、見えそうな気が、するんだよな)
何度もそうして、けれど、もう一歩のところが埋まらないのだが。
さわさわ、さわさわ。音が重なる。風が少し、強くなった。葉の向こうに垣間見える空のオレンジ色が、ずいぶんと濃くなってきた。……もうすぐ、日が沈む。
戻ろうか、そう言いかけたとき、樹の頂点が突然、燃え上がるような赤に染まった。
はっと見上げる。地平に沈む陽の熱が燃え移ったのかと思われた――が、それは炎ではなく、一羽の鳥だった。
真っ赤な羽毛をした、鷺によく似た鳥。そういえば、南で一度だけ、目にしたことがある。
ふと、ケオルは奇妙なことに気づく。この樹は、ここにこれほどの存在感をもってそびえているというのに、鳥が他に一羽も見当たらない。
「こいつだけなんだよ」ケオルの疑問を察したように、キレスが言った。「この樹にとまれるの」
ケオルはもう一度それを見上げる。一瞬、緑と赤のコントラストが鋭く目を突いた。しかし次第に、それらは夕暮れの闇に呑まれ、色を失ってゆく。
「こいつが呑み込んだんだ」
隣でキレスが何気なくつぶやくのを聞いた。
「魂を二つぶん。ぱっくりとね」
ケオルははっと息を呑む。自然に、予言書の一節が脳裏に浮かんだ。
“門をくぐりゆきし王の魂、イチジクとブドウの実を食らいて戻らん”
すると、突いた玉が別の玉に当たるように自然と、他の節が引き出される。
“二色の玉”
“地より伸びゆきし腕のうちに、孕みたるもの”
(「門」……「魂」……)
――その瞬間。
脳の中でなにかが、音を立てて割れ砕けた。
“その先”への道に立ちはだかる、透明の障壁――それ自体が存在しないかのように見せていたものが。
割れて初めて、「そこ」にあるのだと気づいた、その壁が。
そうして、その壁を通して見慣れていたものが、すっかり色を変えてしまった。
ケオルは、その先を求める前に、もう一度、始めから問い直さなければならなかった。
自分が何を見ているのかを。
そして、何を見ていたのか、を。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき