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文目ゆうき
文目ゆうき
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睡蓮の書 四、知の章

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 その後、積極的に外界に反応するようになったが、関わり方といえば、すべてを拒絶しようとするあのやり方、そればかりだった。――ところが記憶を失うと、今度はその激しさをすっかり消し去り、ずいぶんと大人しくなった。思えば、幼いころに戻ったようでもあった。ただ昔と違って、関心が自然と周囲へ払われるようになったのだろう、周りのものにあって自分にないものを強く意識し、不安げに瞳に影を落とすことが増えた。
 それが、今は。
「確かに、以前と様子が違うわね。でも、いい変化なのではないかしら。……目が、合うのよ。今までいつも、避けるように逸らされてばかりだったのに。あんなに綺麗な瞳でまっすぐに見つめられると、どこかくすぐったいわ」
 マキアはそう言うと、肩をすくめて笑った。
 それは劇的というほどではないが、ケオルにははっきりと感じられる変化だった。影が払われ、何も縛るものがないというように、表情が率直に彼の思いを語る。また言葉も、自由に生み出されているよう。
「きっと、記憶が戻ったからね。抑圧されていたものが、解かれたのでしょう」
 記憶が戻るとき、そうした変化を見せることがあるのだと、彼女は言う。確かに、自然な様子だ。
 キレスの記憶が戻ってから数日、彼とは毎日、かなりの時間を一緒に過ごすようになった。一昨日、あれほどひどい怒りを見せた後にも、彼はけろりとした様子でまたやってきた。くつろいだ様子でたわいのない話を繰り返し、あの邪気のない瞳で、まっすぐにこちらを捉える。こちらの戸惑いなどよそに、近くにあって当然だというように振舞うのだ。
 抑圧から解かれた状態。――それが、喜びの感情ばかりなら、よかった。
「でも……怒りの感情も、大きくなってる」
 何もないところから、突然沸点に達するように湧き出るあの、激しい感情。
 記憶と同時に奪い去られていた感覚が、皮肉にも、戻されたのだろう。受け止められず、抑え付けられ、そうしてひどく傷ついた過去の思いが、彼のうちに薄まることなくあるのだ。それらが、些細なきっかけで、すべてを引き連れ激しく露呈する。
 今の状態が自然だというなら、この怒りの表出もまた、彼の「自然」なのだろうか。
「どちらかというと、感情そのものが、露になりすぎてる感じがするんだ。その正負に関わらず、増大して……」
 抑えるのが難しい、あるいは、抑えようとすることで余計に歯止めが利かなくなっているのかもしれない。
「程よく、ができないのね。表しかたも、判断も。自分にとって快か不快か、それだけ。……極端なのね」
 そうだ、極端すぎる。まるで真逆だ。曖昧に混ぜてあったものを、二つにきっぱりと分けるよう。
 それは、“分からないから、分けられなかった”ものが、“分かることで、分けられる”ようになった、そんなふうにも見える。
「分けられる陰と陽――それこそが、『月』、なのか」
 これまでがむしろ、“雲に隠された”状態だったのかもしれないと、ケオルは思う。曖昧で、判然とせず、怒りの感情も薄らいでいた代わりに、喜びの感情すら曇らせたのだろう。
 すると突然、マキアがふっと笑った。
「そう考えると、やっぱりあなたたち、似ているわね」
 思いがけない言葉に目をしばたく。彼女は続けてこう言った。
「あなた、いつも求めようとするじゃない。たった一つの、正しい『答え』を。そうかそうでないか、正しいか否か、きっぱりと分けようとするわ」
「……」
 笑顔だが、それは遠まわしに重ねられる戒めだ。ケオルは思った。
 何度も言われてきた。ものごとには、中間の層が濃淡広く横たわっており、多くはそれに属するものだと。だから、無理に分けようとすれば、判断を誤ることもあるのだと。
 けれど、問題の所在を曖昧にし、宙に浮かせた状態で放置しようとすると、ひどく落ち着かなくなる。せめてどれほどの距離か、どちらとより近いかを知り、枠を定め、それを入れ込んで、どうにか名を与えてやらねば――不安で仕方がない。
 事象とはまるで獣であり、檻に入れて管理されねばならない。そうでなければ、いつでもこちらに牙を向け、喰らいつくのだ。放置することなど、考えられなかった。
(似ているのだろうか。キレスと)
 きっぱりと分けてしまうこと。そうせずにいられないこと。
 姿かたちのほかは、何一つ似てはいないのだと。近いと分かるとなお、そうした差異ばかりが気になっていた、けれど。
(共有しているものが、あるだろうか。ほんの少し、その、欠片だけでも)
 もしほんとうに共有しているなら、分かる部分もあるかもしれない。
 わずかな期待にほころびかけた胸が、けれどすぐに、ぐいぐいと締め付けられるのを感じる。
 ――不安がぬぐえない。分かってやれるのだと信じきれない。
(俺は、本当に、分かりたいと思ってるのか)
 当然だ、分かりたいに決まっている。そう叫ぶものを、もう一方が否定する。
 分かるわけが、ないじゃないか、と。
 そうしたことを、いったい何度繰り返すのだろう。
 キレスは、月神だ。千年来、生じることのなかった、「月神アンプ」。
 その特異な性質については、ごく僅かに残る当時の記録を元に、同じ月属の下位「夜神ケンス」を通して、推測されているに過ぎなかった。
 分からないものと、分かるもの。そうした感覚の、一般との差異。あるものに対しては敏感に反応しながら、別のものには非常に鈍感であるようす。
 ぼんやりとして陰鬱な傾向は、その精神の半ばがこことは違う、別の部分に預けられているようで、だからこそ彼らは、我々の見えざるものを見、知りえぬものを知るのだと――そう考えられてきた。
 ところが。記憶を、その力を戻したキレスの様子はどうだ。
 陰鬱さをまるで間逆に転じさせているような、その激しい攻撃性。
 敵に対してばかりではない。親しいものにも――おそらくどんな相手に対しても、同じように開かれるその性質。ただその瞬間、突然に、排除したいと考えたものを傷つけるその力。それはこの数日で、いやというほど知らされた。
 また、キレス自身の言葉によって突きつけられる、感覚の「ずれ」。
 血に対するそれのような、受け入れがたい感覚を、彼は当然のように持っている。それひとつであれば、何とかなるかもしれないと思えた、しかし、そうではなかった。もっと広く、思いもよらない部分にそれは横たわっているのだ。そうした問題は、一つは小さくとも、日常的に接しそれが積み重なることで、大きな断絶を感じさせる。それを、この数日でひしひしと感じてきた。
 どうにか分かろうとしてきた。近づけたと思えたことも、あったはずだ。
 けれどそれが覆される。また、別の壁が立ちはだかる。その、繰り返し。
 少しでも近づいているのだろうか? 遠ざかっているのか? それが、まったく見えてこない。
 だから、自身の心根を疑ってしまう。理解することを、自身で拒んでいるのではないかと。
 人は言う。月は“魔”であると。
 それを理解することなどできはしない。
 いや。理解してしまっては、ならないのだ、と――
(……)
 ケオルは幼少期、何度も彼との「断絶」を覚えてきた。いまさら、その溝を埋めようとすること自体、無理な話かもしれない。