睡蓮の書 四、知の章
上・兄と弟・4、何のために?
東の神殿、地下の書物庫に、「予言書」の記される通路はある。
それは左右の壁と天井を順に埋め、新たに記されるときは、通路の奥が自然と広げられる。そうして、地下は複雑な構造をしていた。
ケオルは地図を手に階段を下りる。
書物を保管するくぼみのある、狭い地下の部屋。その奥に開いた通路の、はじめの壁。その右手に、「ケセルイムハト」は記されていた。
天と地の水に結びつけた「青《ケセベジュ》」。これを二度、くり返し、
それははっきりと「退ける《ケセル》」ものと説明されている。「憂い《イムト》」を「遠く《ハアウ》」へ、と。
音の響きを一部重ねることで、その意味を複数持たせ、神聖さを強調するのは、「聖なる言葉」ではよくなされる方法であった。
(それが、生命神の瞳を示していた……)
北の知神から聞かされたことを、シエンからも聞いた。
(でも、青というだけで、決定的なものは何もない)
ケオルは、理由を探していた。第51節が、生命神の正しさを証明するものではないと、信じられる理由を。
けれど……、未だ確証はないのだと、そうして問題を曖昧にすることしかできないでいた。
奥へと進む。いくつも枝分かれしたその道の、一番奥。つきあたりの天井に、最新のもの、つまり第52節が記されている。
二色の玉。――この「玉」とは、魂だったのだろう。
千年前を生きた、初代の生命神と太陽神。はじめの王ウシルの二人の息子たちの。
戦の終わりを象徴するケセルイムハトが現れ、千年前の兄弟がよみがえる。そうであれば、始まりにあった戦を、終わりにも起こすというのだろうか。
次こそは、生命神の勝利で、終わるために――?
(冗談じゃない)
ケオルは首を振る。確定的でないことにとらわれるのは、やめよう。
踵を返しかけて、ふと、突き当たりの壁を見る。
そこには、一輪の睡蓮が描かれていた。
このたび著された第52節と同時に、壁に浮かび上がったもの。なぜ、文字でないのか。なぜ、睡蓮が描かれるのか、分からなかった。これまでこんなことがあっただろうか? 少なくとも、記録には残っていない。
文字でないことに加えて、色がついていることも気になった。かすれるように、けれど確かに彩られた「青」色。ターコイズのように冴え渡った明るい青《メフェカアト》ではない。それはラピスラズリのような紫紺、深い青《ケセベジュ》。
はじめ、睡蓮であることから、生命神直属というあの特異な精霊のことを思い浮かべた。ただそれは、白色だったはずだ。
けれど――生命神がケセルイムハトの青を持つのならば、もしや……
ケオルはもう一度首を振ると、振り切るようにその場を立ち去った。
「お邪魔かしら?」
書物庫への階段のある狭い部屋を出ると、そこは書物室である。どの神殿よりも広いこの部屋に、今ひとりの女神が訪れていた。
東に住まうもうひとりの知属神、「夢神フトホル」のマキアである。
「いや。もう、終わったから」
ケオルは笑んで応えた。
立ち並ぶ柱のひとつを背にして、マキアは椅子に腰掛け、書を読んでいたらしい。白く質素なワンピースのひざの上に、今は読みかけの書を置いたまま、その落ち着いた瞳をじっとケオルに向けている。
何か話があるのだろうか。ケオルが瞬くと、マキアはふっと息をつき、また書に目を落とした。
「昨夜、あの子が――キレスが、来たわ。……ひとりきりで」
なんでもないことだけれど。そういうように、彼女は話し始めた。
「あなたがいないときに来るなんて、珍しいことだと思ったわ。そうしたら、子供の頃過ごした場所がどうなったのか、見に来たと言うの。……残念なことに、もう何も残っていないけれど」
ケオルははっと息をつめる。マキアはその瞳に憐憫の色を混ぜた。
「……ずっと、隠してきたのね、あなたのお父様は。――そして、そのために、『月』を研究していた」
マキアは戦以前に成神していたため、父のことを知っている。確かに父は、月の性質についてを熱心に研究していた。わが子のことを知りたいと、その特異な性質を知る必要があるのだと……それは知属の長として求められる以上に、父として望んだことかもしれない。
「あいつ、地下の部屋を見たいって?」
「いいえ、見たいとは言わなかったわ。ただ礼拝室に、しばらくいたみたいね」
そこは亡くなった人々を供養するため、地下に独立して設けられた部屋である。戦のあと、月属で最年長であったジョセフィールが、神殿ごとに戦死者をまとめて弔ったが、治癒女神ヒスカはできるだけ一人ひとりを丁寧に供養したいと願った。そのため東では、マキアが調べうる限りひとつひとつ、小さな石版に名前を刻み、そうした墓碑が、整然と並べられているのだった。
「……」
ケオルは顔を曇らせる。キレスが、東に? 幼少期を過ごしたここは、彼にとってあまりいい思い出のない場所のように思える。彼はいったい何を思い、求めたのだろう。
知神となった父はその権限で、「月」に関する多くの記録を読み漁り、幼い息子の“特異的な”様子を解釈してきたはずだ。その情報が母を助け、母はキレスを理解しようと努めてきた、それを、ケオルはよく知っている。どれだけ心を砕いていたか……しかし結果として――残念ながら――それは伝わったとは言えない。
与えられなかったもの、受け取れなかったもの。どちらも責めたりはできない。ただ、そのせいで歪んだものを、どうにか修正できはしないかと、そう思う。
そのためには、父や母が知れなかったものを、知らなければならない。より確かに――そうしなければ、同じように誤解を重ねるだけなのだ。けれど――。
「月って、何なんだろうな」
ぽつりと言葉がこぼれた。
「よく、分からないんだ。どこまでがキレス自身の性質で、どこからが『月』の性質なのか。その、境が」
「それは、別けられないのじゃないかしら」
人の誕生、その個の成り立ちは、マキアの主な研究課題である。彼女は戦後、知属の長の空位を「代行」という形で埋め、ケオルが望むとあっさりそれを譲ったのだ。――出産や運命に関わるという夢神フトホルの号を、なにより望むために。
「同じ環境にあっても、性質が変われば受け取り方が変わるというわ。そうして人格が作り上げられていくのだから」
きっとそのとおりだ、とケオルは思う。キレスと自分は、同じ環境で同じ時を生きてきたのに、こんなにも違うのだ。――ただ、
「少し、不思議な感じがするんだ。今のキレスは、記憶を失う前と後、そのどちらとも違う。――どれが本当なのか、って」
幼いころの彼は、母親以外に積極的に関わることがなかった。一緒に居ても、彼から声をかけたり誘ったりすることがなかった。まるで見えていないようで――そうかと思えば、こちらが近づき関わろうとすれば、当然そこにいるのを知っていたというように、自然にそれに応じる。どこか一方通行な関係だった。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき