睡蓮の書 四、知の章
(……でも。無理、で終われるわけが、ない)
今は、それを認めるわけにはいかない。ケオルは唇を噛む。
(どうにかしないと)
今のままでは、彼は孤立してしまう。
こちらが覚える断絶を、彼自身もまた、別の部分で味わってきているに違いないのだ。こちらには同じ思いを抱くものがいくらでもいる。けれど彼は、思いを共有するものもなく、ただひとりで、ゆえに、彼にとって当然である何もかもが「間違い」とされてきた。
否定してくるものを、否定してきたのだと、言った。それゆえ溝はますます深まるばかりだ。孤独を恐れる彼が、より孤独を深めようとするこの悪循環。
(せめて表に出すのを、制御できれば……)
互いにうまくやるには、それしかないように思える。
けれど、それは本当に、よい方法であるといえるだろうか。
キレスは彼自身の苦しみを、こう語った。“俺自身がほんとうに自分自身と認めるものを、否定される”、と。
抑制を望むことは、彼にそうした思いを強いることになりはしないか。そうして、一方的に、彼に対してだけ、自然であることを奪おうというのか。
それは、母がやってきたことと、同じなのではないか――
「何を、そんなに思いつめているの?」
はっとした。マキアが顔をのぞきこんでいる。
「また『答え』を探しているのね」
そこにはもう笑みはない。ケオルは思わず目を逸らした。
「……もう少し、理解したいんだ」
「理解できると、そう思い込むのは危険だわ。外側から見えることなんて、限られているのよ。知ろうとしすぎて、個人の領域に踏み込むと、互いが傷つくの」
マキアは声低く、忠告した。「彼はあなたではない。たとえ、双子でも」
その言葉がケオルの胸をえぐる。――わかっている、当然だ……湧き出す感情は、しかし声にはならなかった。
「……理解できないものを確かにする、そうした姿勢を、欠いてはならないはずだ」
「単に好奇心からそうした探究をしようとしているのなら、賛成できないわ。キレスはどう思うかしらね?」
「好奇心じゃない、必要なことだ! 知ることなしに支えるなんて、できない」
「人を支えることは、そんなに簡単じゃない。知ることだって、そう容易にはいかないわ。知っていると思い込むことが、相手を深く傷つけることもある。また知っているはずだと頼られ、寄りかかられて……、支えきれず、共倒れになったらどうするの? とりかえしがつかないわ」
「じゃあどうするんだよ、ほうっておけって言うのか!」
思わず声を荒げたケオルに、マキアの眼差しは変わらず、厳しく注がれる。――感情的になってはならない、求めるものは何か、冷静になってそれを精査しなければならないのだ、と。
そうして、感情の熱を冷ますようにしばらく、無言の間を置いてから、彼女は静かに口を開いた。
「ケオル……、あなたはいったい何のために、彼を理解しようとしているの?」
(――“何のために”?)
その言葉がなぜだか、細い針のように、すっと胸に突き立った。
何のために、なぜ。「理解する必要がある」のか、それを頑なに求めるのか。
今それに答えたのではなかったか。彼を支えるため、知らねばならないのだと。彼の、ために――
(……ほんとうに?)
息が詰まる。当たり前だと言おうとした、しかし何かが、そうではないのだと告げる。
「それは……、兄弟、だから」
戸惑いのうちに、ケオルの口からは思考を通さない言葉がもれ出ていた。
するとマキア、はふっとその表情を和らげ、観念したように、つぶやく。
「……そうね。兄弟だから、気になるのは、当然ね」
それから、まだ思考から離れられない様子のケオルをなだめるように、ほほ笑んだ。
「あまり考えすぎるのも、よくないものよ」
ああ、まただ。
漫然と思考を重ねることは、堂々巡りを生むばかり。そうしてかき混ぜすぎれば、浮かびかけたものも沈んでしまうのだ。
けれど……この針は、どんなに意識をはずしても、無くなりそうにない。
まるで自然に、そこに突き立ったまま、けれど何かに揺るがされるたび、鋭く痛みを生む。
そのたび、深く、食い込んでいくのだった。
*
(おや。今日はケオルが来ているのか)
羽音をひとつ響かせ、地に足をついたヤナセは、なじみの風から彼の神殿の様子を知らされた。
西の神殿から戻ったところだった。しばらく前から、彼はたびたび西へ赴き、亡くなった友人――ホリカに、弔い花を手向けていた。
西の礼拝室は花を欠かなかった。女神たちがほぼ毎日、新しい花を届けるためだ。そのうち誰かに会うこともあったが、みな暗い顔をし、不安を吐露してゆくばかりだった。それはホリカを失ったためだけではない。その弟シエンが、まるで別人のように変わったためだ。
けれど今日、神殿を包む空気に、そうした緊張は感じられなかった。音楽の女神が歌い、それにあわせて奏でられる楽器の音色が、久々に明るく弾んでいた。
礼拝室で偶然シエンに会うと、女神たちの変化に納得がいった。彼は以前のように穏やかな笑みを浮かべ、姉への供養に礼を述べた。
それからしばらく、いつもホリカとしていたように、思いを語らう。同じ、神殿の代表者として、また四属の長として。
(人間界に降りると、言っていた。ホリカがあれほど止めたがっていたことを、その慰霊碑の前で話すとは)
ヤナセはふっと目を細める。姉として弟を思う気持ちもわかるが、しかしシエンの決意も分かる。属長としての義務感というものを、自然に負うのだ。彼は特に、責任感が強いために。
けれどシエンは言った。ほんとうには、人間のためではないのだと。そうして望まれ、応えられる事実に、自己の承認を得ているだけなのだと。
卑下することなど何もないだろうにと、ヤナセは思う。救われるものがある、その事実で十分だ。王であるラアが、禁じていた人間界への往来を彼に許したのも、それを認めてのことだろう。
そのラアの、変化についても触れた。大規模な力を繰り返し用いることで、確かな自信を得たのだろうか。以前に比べてずいぶんと落ち着き、大人の顔のなったようだ。
ただ、気になることもあった。
中央神殿の空気は、戦に向かう緊張感や高揚とは、無縁だった。それどころか、悠久の平和のうちにあるような穏やかさが漂っている。戦が近いと、明確に告げられているというのに。
戦のとき、王が神々を束ね先導する、そうした力や意思のまとまりが、微塵も感じられない。先の戦で、敵の奇襲に遭った際、王そして神殿代表者がとった行動、その一体感。また、守るべきものに対する責任感――少年であったヤナセにも感じられたもの。それらが、今どこにも見えてこないのだ。
千年前の、太陽神をよみがえらせるのだと言った。ラアはその方法を知っているのかもしれない、だが今は、何の動きも見せていない。本当に、そんなことが可能なのか。また、そうすることで本当に戦を有利に運ぶことができるのか。あの、終結の象徴――「ケセルイムハト」の瞳を持つ、生命神を相手に……?
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき