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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

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 試していた。いつもはキレス自身が、その距離をもって遠ざけ、隠してきたことを、今なら引き出せる気がした。見えないものを引き出し、自分と彼を隔てるものを、より明確にしたい――そうすることで、彼との間に線を引いて分けようとすることの正当性を確かにし、それによる罪悪感を、無くしてしまいたかった。
 拒絶されるかもしれない。傷つけるかもしれない。けれどそうして、互いに距離を測らなければ、近づかれるたびに心がざわつく。そんなことは、耐えられないのだ。
 ケオルには、キレスのああいった執着が、事実から目を逸らしたもの、単なる思い込みのように映っていた。思い込みのために、行動がゆがみ、悪循環を呼び起こしている。そうした態度が、彼は、気に食わなかった。思い込みでしかないなら、うち壊すべきだ。ケオルはいつでもそう考えた。偽りは破られるべきである、と。そうしたものの存在を、彼は、許したくなかった。
 キレスはこの双子の兄の眼差しをすこし斜めに受け止め、紫の瞳に一瞬、影を差した。けれど、ケオルがそれを確かにする間もなく、ごろりとベッドに仰向けになると、そのままこう答えた。
「綺麗だから、に決まってるだろ」
「綺麗か……? 夢の中でこそ理解するけど、現実では……イヤだな」
「なんで?」
「なんでって……」
 おかしなことを聞く。ケオルは顔をしかめた。けれどいざ説明しようとすると、すっと言葉が出てこない。
「……気分が悪いだろ。傷や痛みを、連想してしまう」
 それから、死を。――ケオルはそれを、あえて口にしなかった。
「自分が、切られたわけでもないのに?」キレスはあきれたように返す。「おかしいんじゃないの」
 おかしいのはどっちだよ。その言葉をぐっとこらえ、ケオルは眉根を寄せた。心情的には、彼の言ってることはめちゃくちゃだ。けれど、理屈では――間違っているとは、言えない。
「キレス、お前だって、切られたら痛いだろ? 厭じゃないのか」
「切られたら、厭に決まってる。……でも」と、キレスは続ける。「俺じゃなければ関係ないだろ。俺は、痛くねえし」
「――仲間が、切られても?」
 ケオルが訊ねると、キレスはこちらを振り向き、まっすぐにその瞳を向け、問う。
「お前、俺が切られたら、痛いの?」
 その真剣なまなざしを受け止め、ケオルは当然だというように返した。
「少なくとも、心は痛む。シエンだって、そうだろ」
「……ふうん」
 低い声で、それだけ言うと、キレスは顔を逸らした。その瞬間、すっと距離が遠のくように感じた。
 キレスは黙って壁を向いていた。そうして、溜め込んだものを吐き出すように息をつくと、肩が大きく揺れた。ケオルはそれに、拒絶の意志を見た気がした。
「――人の血を見て、痛いって思わなきゃ、駄目なのかよ……」
 キレスは壁を睨んだまま、より低い声で、ぽつりと漏らした。
 その言葉に、ケオルははっとする。とたんに罪悪感が胸に湧く。
 自分は、いったいキレスに何を求めているのか。彼の感覚を、操作しようとしているのか……? 自分の感覚が当たり前だ、お前が間違っているのだと、そう主張して、正しく“あるべき”だと、そう言っているのと同じではないか。
 キレスの言うこの感覚が、歪んだ思い込みなどではなく、ただ純粋に、彼自身の持つ感覚であるのなら。それを、ただ知りたい、理解したいのじゃなかったのか。それを知ろうともせずに、こちらの価値観を押しつけようとするなんて――。
「……」
 ケオルは唇を噛む。これでは駄目だ、受け入れなければ、理屈でそう分かっても、自分に嘘をつくことはできなかった。キレスの感覚を理解すること、それは今の彼には難しい。理解できないものを受け入れることは、できない。
 すべきと分かれば、できるものだと、思っていた。――けれど、感覚はそう簡単には変わってくれない。これは、価値観の枠組み、その認識を変えることだった。自身の持つ価値観を疑う、そうした不快感が伴う行為だった。
 言葉が出ない。なんと言えばよいのか、どこへ向かうべきか、分からない――ケオルはひざの上で指を組み、それを何度も組み替えた。
 しばらく、どこか重たい沈黙が、続いた。
「……それならさあ、お前だって」
 それを破ったのは、キレスだった。彼は天井を、なにもない宙を見つめるようにして、こう続けた。
「術で文字書くとき、インクもないのに“書ける”。あれ、インク代わりに使ってんの、ウシルの腐敗じゃないか。趣味悪いんだよ。人のこと言えるのかよ」
 その、唐突な訴えに、ケオルの目の色が変わる。
「――ウシルの『腐敗』、だって……?」
 聞き返すその表情は、純粋な驚きと、知的好奇心にあふれていた。
 その反応が意外だったのか、キレスはたじろいだ様子で、
「……そうだよ。ウシルの体が腐敗して流れ出た液。当然、この世のものじゃない。……気持ち悪いだろ」
 そう言って顔をしかめる。それを気にも留めず、ケオルはそのことをすばやく紙片に書き留めている。覗き込みながら、キレスは、大丈夫かと問いたげに彼の双子の兄を横目で伺った。
 ケオルは高ぶる気持ちをそのままに、ペンを走らせる。多くの書物を読んできた彼でさえ、まったく聞いたことのない話。おそらく、どの書物にもいまだ記されたことがないのだろう。それは、キレスが月神として知る「事実」――そう、ケオルは直感した。
「そうか、……知らなかった」
 ケオルが興味深げにつぶやくと、キレスが、
「それ聞くと、術で文字書くの気持ち悪くなるか?」
 訊ねられ、ケオルは少し考えると、いや、と答える。キレスは、ほらみたことかと言うように、
「血は駄目で、腐敗はいいわけ? ひとの腐敗液を使って平気とか、お前のほうがおかしいんじゃねえの」
 その指摘に、一瞬あっけにとられたように目を丸めたケオルは、直後、声を上げて笑い出した。
 なんという正論。まったくそのとおり、一切反論の余地がない。痛快ですらある。
「ほんとだな……お前の言うとおりだ」
 この奇妙な反応を、胡散臭そうに眺めていたキレスは、しかし結局、つられるように笑い出していた。
 断絶しかけたものが、再びつながった。ケオルが胸をなでおろすと、キレスはベッドに寝転がったまま、腕を天に向かって伸ばした。じゃら、と彼の腕を飾るたくさんの飾りが音を立てる。
「いいだろ、これ。ターコイズ、ラピスラズリ、黒曜、アメジストにアラバスター、黒檀、金銀それから……やっぱ、紅玉髄《カーネリアン》が、一番いい」
 その、紅玉髄でできた一連の飾りをつまみ、ランプの光にかざす。球形をした紅色の輪郭が、熔かされるように緋色に燃える。
「でも、生きてるもののほうが、断然綺麗だ。血は、流れ出て形を変えるし、透明な赤を幾重にも重ねて、濃い色を作り出してる。――でも、死んだら、汚い」
 キレスの言葉に、ケオルは首をかしげる。
「血の出所が、生者か死者かで、変わるのか……?」
「器が死んでるかどうかじゃないんだって。血そのものが、生きてんだよ」
 言いながら、キレスは自身の手を返し返し見つめた。かつてそこを染めていた色を、思い浮かべるように。