睡蓮の書 四、知の章
キレスはしばらく、左右の手首や首筋を触っては、その脈動を不思議そうに確認していた。気持ち悪いと口で言いながら、興味深そうに。
その様子を半ば呆れながら、半ばおかしそうに眺めていたケオルは、ふと、幼い頃のことを思い出す。
頻繁にその力で母に抵抗していたキレスは、あれだけ母を傷つけ、繰り返し拒絶しながら、夜には必ず母の傍で眠った。姿が見えなければ探しまわり、眠るときはぴたりと体を寄り添わせて――他の誰にも奪われまいとするように。
幼かったケオルには、キレスのその行為が自分へのあてつけのようにしか映らなかった。矛盾した振る舞いの根に、自身でもそれとは認識できないような理由があるなど、まったく想像もつかなかった。
なぜ今、そのことを思い出したのだろう。以前に、赤子は母親の鼓動を聞いて安心するのだと聞いたからだろうか。それらが突然、繋がったのかもしれない。
ふいに、キレスの腕が伸ばされ、ケオルは一瞬びくりと身を強張らせた。
「あー、聞こえる。ザック、ザックって」
キレスはケオルの首の脈にふれると、目を閉じてうっとりと言った。
手の感触を通して伝わるものを、そう表現しているだけなのか、ほんとうに“聞こえる”のか――ケオルには分からない。ただ、弟の表情が珍しく安らいだものであったから、彼が手を離すまで黙って付き合っていた。
それから、すっかり眠気がさめたので、ケオルは立ち上がると壁際のランプに火をつけた。寝台に腰かけ、小台においてあった数枚のパピルスの紙片を手に取る。昨日兄と話して気づいたことを書きとめ、寝る直前まで眺めていたものだ。
「何それ?」
キレスが横から覗き込む。ケオルの肩にあごをのせ、体重をかけてくるので、だんだんとケオルは前のめりになる。
「……重、い!」
声を上げて押し返すと、キレスはぱっと宙に浮いた。それから手品か何かのように、ケオルの目の前に突然、ちゃり、と何かを広げてみせる。
襟飾りだった。それは、ケオルがよく身につけるものとそっくりの。
「それ、お前が作ったのか?」
訊ねると、キレスはケオルの背で飾りの紐を結びつけながら、まあね、と答える。あの晩、ケオルの襟飾りの紐が千切れてしまったのを、気にしていたのだろうか。
「お前の、ほんっと地味だよなあ」
キレスはケオルの肩越しに、覗き込むようにして、身につけられた襟飾りを眺めると、言った。
「でもなんか、お前らしいよな、それ」
キレスは確かに、ビーズ細工の装飾品を作るのが趣味のようだが、いつも望むままに技巧を凝らし、贈り物であっても、相手が何を求めるか、好みや釣り合いを考えたりすることはなさそうだと、思っていた。
そのためだろうか……、ケオルは少し、奇妙な感じがした。
キレスの様子が、これまでとは、どこか違う気がする。これまでは、夜分に人の部屋を訪問することはあっても、寝室に突然現れ、プライベートを侵すようなことはなかった。それに、今するように、べったりとまとわりつくように触れることも、決してなかった。むしろ、そうしたことを避けていたのではなかったか。
ケオルの背によりかかり、無意識にか体をゆらゆらと揺らすキレスは、以前の彼とはまるで違って、ずいぶんと無防備な様子だ。それは子供の頃の様子とも、また違っていた。
この変化は、歓迎すべきものなのだろうか。
「ここんとこ血が通ってるんならさあ、切ったらすごい血が出るんだろ?」
キレスがそう言いながら首筋に触れるので、ケオルは一瞬ぞっとした。あの、北での殺意に満ちた彼の様子が脳裏によみがえる。
「……死ぬよ、それは」
ケオルが言う。にわかに、キレスはくくくと声を漏らして笑った。
「ああ、そうだ。きれいだったなあ、あれ――。三人、仕留めたつもりだったのに、ひとり逃したけど……。どこも同じ闇色なのに、ランプに照らされた部分だけ、ほんとうに真っ赤なんだよな。……そうか、首を、落としたから」
目を閉じ仰いで、彼は陶酔した様子で話す。それは、北で最後に相手をした女神たちのことに違いなかった。
「実際、心臓とどっちが多い? 血が出るの」
向けられる紫水晶。ケオルは戦慄する。――魔性。その言葉が、はっきりと浮かんだ。
今見せた眼差しは、敵を威嚇するそれではない。邪気がなく、そのことが余計に、異様さを引き立てる。なぜ、死について語りながら、このような表情ができるのだろう。まるで自然に……喜びすら、感じているように。
自身のそうした性質を、嫌悪していたのではなかったのか。――それとも、これこそが彼の自然な感覚であり、嫌悪感を生んだのは、周りの否定的な反応ゆえであったというのか。
北で見た、赤い血だまりに浸かるキレスの様子が思い出される。まるで、同じだった。ケオルはそれを、確かに、よく見る夢のようだと言った。その直後の、彼の反応……。
――はっとした。そうだ、先ほどからの違和感。その、正体は。
(距離が、近い。……近すぎる)
それはキレス自身の意識が測る距離であるだろう。すなわち、彼はケオルを、ごく近い存在とみなしているのだ。
キレスがこれまでずっと、一定の距離をとり続けていたのは、誰も自分と決して近くはない、そうであるはずがないという彼の意識の表れだった。同じでないという意識が生み出す違和感、不快感を、自身が避けようとし、また相手に気づかれ避けられるのを恐れるがゆえに。
それをケオルは、わざと壊そうとすることがたびたびあった。キレスの恐れを察し、それを取り除こうと。それは、もう少し近いはずだと彼自身が思っていたからだった。――けれど、今は……。
夢の話は、嘘ではない。けれど、幼少期ごく近く接していた彼の様子、そして今見せるような彼の執着ともいえる感覚は、自分には理解し得ないものだ。
こんなには近くないと、押し退けるような感覚がどこかにあった。……同じであれば、理解できればと、そう思わないわけではない。けれど、ケオルには分からないのだ。分かろうとしても、分からない。キレスの感覚が、彼の求めるものが、同じようには。それどころか、もしかしたら本心では、幼少期にしたように、彼とは決して同じでないのだと、はっきりと線を引いて否定してしまいたいのかもしれない。
それらを、キレスに勘づかれることが、何より恐ろしいと思えた。だからこそ、キレスがこうして寄りかかる重みが、苦痛に感じてしまう。近すぎて、見透かされてしまいそうで――。
「どうして……、」
ケオルは吐き出すように声する。キレスを振り返るその動きが、背の重みを振り払った。
「お前はそうやって、血にこだわるんだよ」
その表情に、抑えた苛立ちが浮かんでいるのに気づかなかったのか、キレスはきょとんと瞬く。ケオルは続けて言った。
「――それが、自分にふさわしいと、思うから?」
それは以前、キレス自身が言ったことだ。これこそが、彼自身の性質であり、そのため忌まれ遠ざけられるのだ、と。
けれど、事実はそうではなく、逆なのだとしたら。自身が忌まれる存在である、そう信じるからこそ、これがふさわしいと思い込んでいるのだとしたら。
「お前の、月神としての本質が、冥界ドゥアトと関わりがあるために?」
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき