睡蓮の書 四、知の章
そうして、ぼんやりと過去を見ていた。その、白い睡蓮のことを、おもっていた。
……そのとき、ふと、何かが灯る――そんな感覚に、ラアは顔を起こす。
カムアが、目覚めた。うっすらと開かれた眼、そのグレーを、ラアは覗き込む。
「カムア」
安堵したふうに、その名を呼んだ。わずか、表情が緩む。
カムアは返事をする代わりに、もう一度ゆっくりと目を閉じ、そして、開いた。
「カムア……ごめんね」
ラアがもう一度声をかけると、カムアの瞳が、静かにラアを捉える。
「……ラア……」
小さく掠れた声が、カムアの口から漏れた。自身の名を呼ぶその声に、ラアは、胸があふれそうになる。
「おれのせいで――ごめんね」
こんなにしてしまった。大切な友達を、こんなに、苦しめて。
それなのに――それでも。ラアは口を開く。どうしても、伝えねばならない。そう思った。
「おれ……、自分の力のこと、分かったつもりだった。カムアに、いろんなこと教わって、こんな感じなんだって、だから、自分できちんと扱えるんだって、そう思ってた」ラアは自身の手を、見つめる。「これは裏側にある力で、表に出しちゃ駄目なんだって。だから、抑えとかなくちゃいけないんだ、うまく抑えたらいいんだって。――だけど」
そう、“だけど”。ラアは唇を噛んだ。
「ほんとは、違う。……そうじゃ、ないんだ。
この力、裏側にあるのは、表にあるものと同じくらい大事な、“おれ自身”なんだ。だから――これを抑えちゃうのは、おれ自身を抑えちゃうのと、同じ。これを抑えた、表だけのおれなんて、ほんとうの、おれじゃないんだ……!」
ラアの訴えは悲鳴に近かった。心の底から、湧き出る感情をそのまま声にする。
「おれ――おれね。あの時、分かったんだ。この力をずっと我慢してたけど、ほんとうはこうして、開放したかったんだって。これがおれの、もうひとつの“ほんとうの”力なんだって。この力があって、おれがあるんだって、そう、思ったんだ。
この力を出していたとき、おれ、すごく……気持ちよかった……」
訴えながら、ぼろぼろと涙がこぼれる。
大切な友人を、自身の力でこんなに傷つけておきながら、その行為を肯定する。これほど自己中心的な主張があるだろうか。
けれど、それでも――ラアは訴えた。そうするしかなかった。それだけが、彼の真実であると、知ったから。
「ごめんね……ごめんね、カムア……。おれ――この力を、なくしちゃうなんて、考えられないんだ! これが、この力がなくなっちゃったら、おれはもう、おれじゃないんだ。この力を、ずっと抑えておくなんて、そんなの、死んじゃってるのと一緒なんだ!!」
この力は、はじめに思ったような、守る力ではないのだと――それは、ヒキイを失ったときに知ったことだ。けれど、その正体を今、彼はほんとうに確かにしていた。守る力でないばかりか、これは、自身が恐れていた、そのとおりの、力。
そうと知ってなお、彼は、自身を肯定する。――肯定するより他ない。何より、自分自身が、それを強く望むから。
「おれは、この力を抑えたくなんか、ない。ただもっと、自分の望むように、開放したい。表だけじゃなく、裏だけでもない、どっちもおれ自身だから――どっちかだけなんて、駄目なんだ。そうして、生きたい。生きていたい……!」
だれに望まれることなく、ただ自身が望むままに。たとえ、どんな犠牲が生み出されようと。
それが、自身がほんとうに「生きる」ということだから――。
ラアの訴えを、静かに聞いていたカムアは、そっと、目を閉じた。そうして、
「……よかった……」
そう、つぶやいた。
「僕の、せいで……ラアが、力を、全部抑えてしまうんじゃ、ないかって……思った」
思いがけない、言葉だった。ラアの黒い瞳が、驚きに開かれる。
「裏側の……力、それだけでは、違うから――。あのときは、だから、止めたんです」
カムアは言う。彼にはわかっていた。それは漠然とした、感覚的なものだったろう。けれど、彼は確かに知っていたのだ。ラアの力、その本質を。知っていて、求めたのだと。
カムアはそれから、そっと微笑を浮かべ、言った。
「あなたの……力。その、黄金が、一番輝くのを、……僕は、見たいんです。……だから」
(……ああ……)
こんな言葉を返されるなんて、思っていなかった。
ラアの目に、静かに湧き出した涙が、そっと頬を伝った。
(カムア――おれの、大切な人)
言葉が出なかった。ラアは無言で、カムアの手――包帯を幾重にも巻かれたその手――を、ぐっと握り締める。
そうして、頬を寄せ、祈るように、目を閉じた。
ひとりでも生きられる。けれど、この人の支えがあれば、もっともっと、強くなれる。ずっと、誰よりも、輝ける。
こんな幸福が、あるだろうか。
「見ていて、カムア。必ず、きみの望むものを、見せてあげる」
ラアの、漆黒の瞳が開かれる。深い闇色、その奥に、燦然と輝く星。闇を燃やしつくさんとするそれは、闇色をまとってこそ美しく輝く、黄金。
「おれは、生きるよ。――誰よりも、強く。……誰よりも」
*
真夜中のことだった。ひたり、と冷たいものが首に触れた気がした。
次いで、かすかに響く鈴のような音。――ケオルは目を覚ました。
夢でも見たのだろうか。そうしてぼうやりと視線をめぐらせる。と、闇のうちに、人の輪郭をみとめた。
「!」
背筋が一瞬凍りつく。しかし目を凝らすと、それがキレスであると気づいた。
「お前、なにしてんだよ」
ケオルはそうして、寝起きの掠れた声で非難した。ここは彼の自室、しかも、最もプライベートな空間ともいえる寝室だ。真夜中に断りもなく侵入していい場所ではない。
キレスの返事はなかった。次第に闇に慣れたケオルの目が、弟の、少し不服そうな表情を捉える。
「……なにか、あったのか……?」
繕わなければならない気がして、ケオルは言葉を重ねた。するとキレスが、
「お前の、首んとこさ……」
「――首?」
「動いてるやつ、なんか、虫みたい。気持ち悪」
先ほど感じたのは、どうやら夢ではなかったらしい。
キレスはいつも突飛なことを言い出す。それにいまさら驚くこともないが、何を言おうとしているのか、考えなければ分からない。
そのうち、北でのことが思い出された。キレスが作った暗闇の空間で、彼の手が自分の首筋に掴み掛かったその直後、彼は慄くような、奇妙な反応をしたのだった。
「虫って……」ケオルはまた眠気を覚えて、けだるげに息をつく。「脈だろ。血が通ってんだよ。お前にもあるだろ」
「ねえし」
キレスが即答すると、ケオルはやれやれと体を起こして、キレスの首筋に腕を伸ばした。
「ほら、ここ。耳の真下からあご骨を沿ってちょっと前のあたり、押さえてみろよ」
キレスの手をとり位置を示してやると、その動きを確認したとたん、キレスはうわ、と声をあげ手を退けた。
「何これ気持ち悪」
「心臓が動くだろ、それで、血が運ばれてるんだよ。一緒だろ、鼓動と。ほら、ここにも」
ケオルはキレスの腕をつかむと、親指の付け根を指した。キレスが確認する。彼はまた、うわ、と声を上げる。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき