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井上 正治
井上 正治
novelistID. 45192
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仮想の壁中

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 これは多数の学生たちが行動に訴えないようにすることを主たる目的としているのではないでしょうか。現在の問題点が次第に明らかになるにつれて増えつつある反対派学生たちに対して大学運営への参加をある程度認めることによって、それ以外の一部の学生たちを孤立させるという狙いではないでしょうか。大学執行部の本当の目的は、あくまでも反対している学生たちを孤立させることにあるのではないでしょうか。学内の民主化は、実は大学が主体性を回復するための試みによって得られるもので、行政府をはばかって本質から外れた権利を学生に与えることで問題を解決しようとしても、かえって本質が見えなくなるだけではないでしょうか。
  第6
 大学が今までの秩序を維持しようとしているときに、大学が変わることを望んでいるのは学生だけではないのではないでしょうか。行政府からは時代の要請にこたえるためという理由で、現行の大学秩序を変更する上級大学の構想が持ち出されたのではないでしょうか。これは、理由でもわかるように大学を現在の高度に発達した社会に見合ったものに再編して、行政府の意向を反映しやすくするということではないでしょうか。それは、大学代表者の行政府による任命にこだわる行政府の態度が如実に示しているのではないでしょうか。
 この国では経済規模の大型化に伴って、賠償を名目とした海外への輸出や企業の合併による大型化などにより一段と高度な経済体制になりつつあるのではないでしょうか。そのために、人材供給を担う学校も再編する必要があるのではないかと考えられているのではないでしょうか。上級大学構想で示されている教育機能と研究機能の分離は、政治問題に関心を持たない高級技術者、管理者や高度な技術などを産業界へ供給するのに必要なためであって、その底にあるのは行政府と経済界が協力して経済最優先の社会秩序を作り上げようとすることではないでしょうか。この国は世界有数の工業力を持った富裕国で、自由主義陣営に属しているのではないでしょうか。しかし、今一度国民の一部の幸福ではなくて多くの国民が人間性にあふれた幸福を得る手段としての自由について考えてみるべきではないでしょうか。
 自由主義社会は、格差を前提とした社会といえるのではないでしょうか。成功した人たちは当然のこととしてその報酬を得ることができるのですが、反面失敗した人たちは収入の道が断たれる可能性があるのではないでしょうか。そして、ほとんどの人たちは勤労者としてそれ相応の収入を得て健全な家庭を築くのではないでしょうか。しかし、社会的弱者や社会的困窮者に対しては福祉政策で救済して、社会秩序が不安定になるのを防ぐという制度になっているのではないでしょうか。こうした格差が健全なものか、あるいは不健全で是正すべきものなのかを考える基準として、所得格差を計測する指標があると思うのですが、それが望ましいとされる基準をはるかに超えている場合は健全な自由主義社会ということはできないのではないでしょうか。持続可能性のある社会あるいは人間に優しい社会という考え方が基本になければ、自由主義社会も弱肉強食の社会になってしまうのではないでしょうか。私たちは様々な力関係の中で人間を大切にする新たな価値体系を築き上げなければならないのではないでしょうか。
第7
この直後ではなかったでしょうか、体調が突然病的ともいえる変化に見舞われたのは。見ているのにもかかわらず見ていない。聞いているのにもかかわらず聞いていない。考えているのにもかかわらず考えていない。この不思議な感覚は一体何なのでしょう。 見ているにもかかわらず見ることができない。聞いているにもかかわらず聞くことができない。考えているにもかかわらず考えることができない。このように「・・・ことができない」というのであれば、当然に見ている人、聞いている人、考えている人ができないということになるのではないでしょうか。勿論、一人称がということになれば見るのも聞くのも考えるのも一人称であり、それができないのも当然一人称ということになるのではないでしょうか。しかし、「・・・いない」という場合、本当に見ている人、聞いている人、考えている人が、といえるのでしょうか。じっと見ているのにもかかわらず頭は気が付かないうちに別のことを考えている。じっと聞いているのにもかかわらず目は気が付かないうちに別のものを見ている。じっと考えているのにもかかわらず耳は気が付かないうちに別の音を聞いている。しかも、自分の意思に反してそのようになるのではないでしょうか。まるで一人称と三人称が同居して、お互いに戦っているというような不思議な感覚といえるのではないでしょうか。自分が自分でないようなというはこのような場合に使う言葉ではないでしょうか。
このような体調では、読書をしても内容が全く理解できなくなるのではないでしょうか。読書中に周囲の音が異常なくらい耳に飛び込んでくるのではないでしょうか。いくら本の文字に神経を集中して読み進めてもその集中が続かずに、無意識のうちに耳が周囲の雑音を拾い始めるのではないでしょうか。そうなるといくら目で文字を追っても文章の内容が頭に入ってこないのではないでしょうか。頭に入ってくるのは雑音ばかりで、本の内容が全く理解できなくなるのではないでしょうか。
また、静かな環境の中で読書をしているときにはいくら目で本の文字を追っていても、頭は別のことを考えてしまうのではないでしょうか。そして頭が考えている別のことが記憶に残るのかというと、それもできないのではないでしょうか。記憶に残るためにはその内容を理解する必要があると思うのですが、ある程度考えたところで気が付かないうちにまた出発点に戻るので、何らまとまりがなく理解のしようがないのではないでしょうか。読書のほうも同じで、何度同じ個所に戻って文字を追っていても頭の中に内容が入ってこないのではないでしょうか。同じことを何度も何度も繰り返すだけで、前後の流れがつかめずまとまりがつかないので、理解のしようがないのではないでしょうか。何度でも繰り返せば少しずつ理解できそうなものですが、いくら努力をしても知らずしらずはじめに戻ってしまって理解できないのではないでしょうか。読書しても文字以外のものに関心が移ってしまい、本の内容が理解できない。考えていても意識は別のところに行ってしまい、考えていた内容も記憶に残らない、というのがこの時の体調ではないでしょうか。五感も知能も自分のものではなくなってしまうという不思議な感覚にとらわれたのではではないでしょうか。
作品名:仮想の壁中 作家名:井上 正治