仮想の壁中
この経過に一貫して見られるのは、大学執行部の管理者としての姿勢と、のちに問題となる大学路線ではないでしょうか。大学路線とは、旧平和条約反対運動以後に大学教育の管理を急ぐ行政府がその管理のための法律を成立させることができなかったときに、それに代わるものとして作られたのではないでしょうか。それは、大学執行部が自主規制することを目的とする制度で、大学自治がすなわち教員自治となることを支柱とした大学運営制度ではないでしょうか。承認機関としての大学執行部とその下に各学部の教員たちが大学の権力機構を構成するというのではないでしょうか。大学の管理運営、人事権は大学執行部が統轄し、処分や教育課程編成その他の学生たちの身近な事柄についても学生たちは無権利状態に置かれるのではないでしょうか。そして、今回の戦闘機墜落のように突発的ですが全学的にかかわりを持たざるを得ないような問題に関しても学生不在の方針が打ち出され、それには常に大学執行部の政治的立場や大学執行部の固有の利益が反映されるのではないでしょうか。
学生が無権利状態に置かれていることについては、年齢的には立派な大人である大学生が管理されるものとして無権利状態に置かれるのは人権の著しい侵害であるとして、また、大学執行部の保守性を示すものとして知られているのではないでしょうか。しかし、大学路線が問題となるのは学生の権利に関してだけでなく、大学の自治に関してより重要ではないでしょうか。それは、学問・研究の自由の裏付けとなる大学の自治が果たして現在の大学権力機構で守り切れるのかどうかということではないでしょうか。大学の自治というときには行政府の教育への介入からの自治を意味するのではないかと思うのですが、先に述べたような政治的立場に立つ大学執行部が行政府の教育への介入から自治を守り抜くというところが非常にあいまいになるのではないでしょうか。大学の自治の崩壊といっても、それは積木が崩れるように明確な形で崩れ落ちるのと違って、既成事実が積み重なることによって、気が付いたらすでに崩壊していたというようなものではないでしょうか。現在、多くの教育施設で起こっている様々な対立において、現在の社会制度に反対する意見に対して意識的に加えられる弾圧も十分にその要因になり得るものなのではないでしょうか。
そして、このようなことは遠からぬ過去にもあったことなのではないでしょうか。その当時学問の府と呼ばれる大学にも思想統制の手が及び、それを阻止するには大学の力はあまりに弱かったのではないでしょうか。それは、行政府の干渉を排するという姿勢が全学的なものではなかったためではないでしょうか。その弱点は大学執行部にあったのではないでしょうか。行政府の干渉で辞表の提出を余儀なくされた教官の退官を大学執行部がいとも無造作に承認したことが前例となって、体制に抵触する学問はすべて危険思想として葬り去られ、教官は次々と退官を迫られるようになったのではないでしょうか。大学の自治は内部から崩壊し、大学は学問の自由を否定する道を突っ走ったのではないでしょうか。
このことから、大学での思想の多様性を縛り、国民の思想を統制することは国民全体に不幸をもたらすものとして、基本法にも思想表現の自由が明文化されたのではないでしょうか。しかし、基本法運用の実質的力は行政府が持っていると思うのですが、その条文は行政府の権力行使を制限することもあるのではないでしょうか。このため、自由を得る国民の側にも行政府の権力行使を制限するための手段が必要とされるのではないでしょうか。すなわち、自由を得るための積極的な努力が必要とされるのではないでしょうか。学問の自由について、これまでは行政府の自重と国民の監視があったと思うのですが、最終的には大学内部の努力が最も必要なのではないでしょうか。そのためには、学生が大きな働きをするのではないでしょうか。大学執行部と学生が大学路線では協力関係にあるとはいえず、その断層を埋めるためには大学運営への学生参加が大切なのではないでしょうか。そのためにも、大学執行部の意識改革が必要なのではないでしょうか。大学路線を巡っては今日の社会の中の大学の立場という問題提議がなされていて、その答えで大学執行部の主体性が問われているのではないでしょうか。
第5
戦闘機墜落後に行われた一連の運動は、大学執行部の「政治的中立」の美名に隠された政治的立場と大学路線を改めさせることを目標としているのではないでしょうか。それは、現在の社会秩序を維持し続けようとする人たちと、よりよい社会を作り出そうとする人たちとの急進的な対立といえるのではないでしょうか。大学路線があるため抗議の場を持たない学生たちは、急造した防護柵によって今までの考えに基づく原状回復の試みを阻止したのではないでしょうか。行政府による建築工事中建物に関係する予算を利用した誘導に応じた大学執行部は声明を出したのち代表者が先頭に立って、大衆伝達手段を媒介としてあらゆる機会に事故機の処理を急いだのではないでしょうか。大学が真に問われている問題に取り組むことなく突っ走った大学執行部には、研究のためなら何でもする研究者の固有の利益追求の意思が働いていて、それは自己実現のためなら手段を択ばない政治の論理に通じるものがあるのではないでしょうか。私たちは、大学執行部の行動の背後に横たわっていると思われる、大学には最もふさわしくないとされている力の論理を見落とすわけにはいかないのではないでしょうか。
夏休みの間大学執行部は事故機の処理を試みて、その都度学生たちに阻止されたのではないでしょうか。その時点では、強硬策のことが多数の教官の間では検討されているのではないでしょうか。しかし、他の大学で問題解決のために実力を行使して、その後全学的に問題が拡大したという前例があるため、大学執行部は刺激的な実力行使は行わずに、学生たちを説得して一部の学生たちを孤立させ、多数の力で問題を処理する方法をとったのではないでしょうか。そして、夏休み明けから大学執行部は学級単位に講義を変更して説得集会を行ったり、積極的に討論集会に参加したりしたのではないでしょうか。多数の学生の意思が固まらないうちに実力を行使して全学封鎖されるよりも、問題を処理するときに実力阻止しない学生たちを多く編成しようとする大学執行部の計画は功を奏して、一部の学生たちが大学執行部の問題処理方法には反対するが実力で阻止することはできないという形で大学執行部の優勢を認めざるを得なかったのではないでしょうか。しかし、討論を重ねるにつれて大学路線の問題が多数の学生の間でも理解され、問題処理を実力で阻止しようとする意見が勢いを増し、大学執行部は窮地に立たされたのではないでしょうか。そして、次に登場したのが学内民主化の問題ではないでしょうか。