今夜は酔いたいの
『今夜は酔いたいの、付き合っていただけます』
高木豊には、かつて恋人も家族もいたが、今はいない。つながるものがないから、行く宛ない根無し草のような生き方をしている。今はバンコクに居て、来週にはバングラデッシュに行く予定である。
泊まっているホテルはバンコクの郊外にあり、あまり大きくないが、サービスのいいホテルである。広大な庭は椰子の木で覆われている。
ちょうど雨季だった。
朝から雨が気まぐれに激しく降る。おかげで夕方になっても、ひどい土砂降りである。庭の椰子が全く見えない。
時計の針は午後五時を回ろうとしている。
「こんな日は部屋でウィスキーをやりながら、音楽を聞くしかない」と高木は思った。
ウィスキーを飲む前に記事を書かねばならなかった。が、どうにも気か進まない。それにお腹も空いている。
部屋を出て、一階にあるレストランに入った。
人影は疎らである。ボーイがくると、彼は軽食とウィスキーを頼んだ。
食事が済むと、少しうとうととしてしまった。
誰かが肩を揺すった。振り返ると、髪の長い白いワンピースを着た女性が立っていた。
「これをあなたのかしら?」と女性は財布を差し出した。
高木は慌ててポケットに手をあてた。財布がない。うたた寝をしているとき、落ちたのであろう。
「あ! 僕のです!」
女はにこり笑みを浮かべ、「どうぞ」と言って手渡した。
彼は財布を受け取ると、
「日本人の方ですか?」
「ええ、そうですけど」
「時間はありますか?」
女は頷いた。
「よろしかったら、隣に座りませんか? 迷惑なら……」
「いいの。実をいうと、私も暇を持て余していますの」と女は座った。
高木はボーイを呼んだ。
「コーヒーで良いですか?」
「いいえ、ビールをいただくわ、少しはしたないかしら?」
「いいえ、少しもはしたなくはありませんよ」
高木をすぐさまボーイを呼びビールを注文する。すぐにビールが運ばれてきた。高木はグラスにビールを注いだ。女は優雅に一口飲んだ。
「喉が乾いていたの」
高木はそっと女の顔をみた。端正な顔立ちをしている。
「どちらからきたんですか?」
「東京から。あなたは?」
「福岡から」
「福岡、あの明太子の福岡かしら?」
「そうです」
「バンコクで何をしているの?」
「旅行ですよ。そう言うあなたは?」
「私も」
「一人で?」
「ええ、おかしいかしら?」
「いや、ちっとも。でも、あなたほど美しい一人だなんて、何か不自然だな」
女は黙って街灯に照られた外の景色を見ていた。口元にうっすらと笑みを浮かべた。高木もつられて外の景色を見た。
雨はいつしか止み、椰子の艶やかな葉が街灯に照らされて輝いている。
高木がふと女の方を見ると、女も自分の顔を見ていた。女はにこり笑った。
「何か顔をついていますか?」
「いいえ、何も。不思議ですわ。さっき会ったばかりなのに、ずっと昔から知っていたような気持ちがするの。きっと、お酒のせいね。酒に弱いくせに好きなの。おかしいでしょ? それとも、みっともないかしら?」
「いや、その何れも違うな」
「よかった。私は町田麻衣子というの。あなたは?」
「僕は高木豊です」
いつしかグラスのビールは無くなっていた。
「今度はワインでいいですか?」と高木が聞くと、彼女はうなずいたので、ワインを注文した。
「聞いていいかしら?」
「何でも」
「何をなさっているの? ちょっと待ってあてるから。商社マンか、銀行員」
高木は首を振った。
「じゃ、新聞記者ね、それとも大学の助教授ってところかしら?」
「みな違います。ただ単なる遊び人ですよ。ちょいとルポライター真似事をしていますが」
「このバンコクには?」
「東南アジアで、日本が何をしているのか、調べに来たんです」
「良いことをしています?」
「ちっとも、でも資本主義の法則に則って活動しているだけです」
「資本主義の法則?」
「投資して利益を上げる。それだけのことですが、その利益が人を傲慢にするんです。資本が何か創造するなんて、現代の大いなる幻想です。破壊するだけですよ。この国の美しいものを、資本主義が破壊しています」
「そうかしら?」と、麻衣子は溜息をついた。
「……つまらない話をしてしまいました。言っておくけど、僕は無思想です。あらゆる思想から離れています」
「神も仏も信じていないの?」
「信じていません。大学でサイエンスを学んだ人間ですよ。論理的に証明できないものは信じません」
「でも、自分を信じているでしょう?」
「それはそうでしょう。仮に間違いであったせよ、自分を否定して生きられません」
「現代って、何を信じていいのか分からない。実に不幸な時代ですわ」
「時代が不幸なのじゃない。人間が不幸になっただけです」
麻衣子は時計を見た。何か思いたったかのように席を立ち、レシートを取ろうとすると、高木は、「ここは僕が払いますよ」
麻衣子は軽く頭をさげて、「これで失礼しますわ」と言った。
「また、ご一緒、出来ますか?」
「時間があれば」と麻衣子は微笑みながら答えた。
翌日、高木は大学時代からの友人である明石憲一と昼食を共にした。
三年ぶりの再会だった。
土着の遊び人みたいな恰好している高木に対して、明石はどこからもみても、サラリーマンとわかる恰好してきた。それが妙におかしくて高木は笑った。
「何がおかしい?」と明石は口火を切った。
「気にするな。つまらないことを思っただけだ」
「ところで、いまだに独りか?」と明石は聞いた。
「未だに独りだ」
「良いよな、自由で」と明石は羨ましそうに言う。
高木は明石の話よりも麻衣子のことが気になって仕方なかった。
「ときとして自由ほど退屈でやりきれないものはないよ。明石、お前はどうなんだ?」と
「七年前に結婚したが、つい最近別れた」
「じゃ、君も同じ独りものじゃないか」
「まあ、そうだが。子供がいる」
「女は好きか?」と明石が唐突に聞いた。
「藪から棒に何だ?」
「女は好きかと聞いているんだ」
「嫌いじゃないさ」と高木はそっけなく答えた。
「じゃ、気をつけな、この国はいい女はたくさんいるが、エイズも蔓延している。噂じゃ売春婦の半分は感染しているという学者もいる。遊ぶ場所を知りたいなら、教えてやっていいぞ」と明石は意味ありげにほほ笑んだ。
明石がこのタイに来て五年経つ。バンコクの隅々まで知りつくしている。どこにどんな売春宿があるかも。
「ああ、気をつけるよ。だが、俺には相手がいる。そういう、お前こそ、女に不自由していないのか?」
相手はいなかった。だが、なぜか昨日、初めて会った麻衣子の顔を浮かび、「いる」と答えてしまったのである。
「つい最近まで女房がいた。今はいないけどな、でも……」
「でも、何だ?」
「もう女には飽きたよ」
「女には飽きたか?」
「ああ、飽きた」
「人の話によれば、君の女房は美人で評判高かったが、何で別れた?」
高木豊には、かつて恋人も家族もいたが、今はいない。つながるものがないから、行く宛ない根無し草のような生き方をしている。今はバンコクに居て、来週にはバングラデッシュに行く予定である。
泊まっているホテルはバンコクの郊外にあり、あまり大きくないが、サービスのいいホテルである。広大な庭は椰子の木で覆われている。
ちょうど雨季だった。
朝から雨が気まぐれに激しく降る。おかげで夕方になっても、ひどい土砂降りである。庭の椰子が全く見えない。
時計の針は午後五時を回ろうとしている。
「こんな日は部屋でウィスキーをやりながら、音楽を聞くしかない」と高木は思った。
ウィスキーを飲む前に記事を書かねばならなかった。が、どうにも気か進まない。それにお腹も空いている。
部屋を出て、一階にあるレストランに入った。
人影は疎らである。ボーイがくると、彼は軽食とウィスキーを頼んだ。
食事が済むと、少しうとうととしてしまった。
誰かが肩を揺すった。振り返ると、髪の長い白いワンピースを着た女性が立っていた。
「これをあなたのかしら?」と女性は財布を差し出した。
高木は慌ててポケットに手をあてた。財布がない。うたた寝をしているとき、落ちたのであろう。
「あ! 僕のです!」
女はにこり笑みを浮かべ、「どうぞ」と言って手渡した。
彼は財布を受け取ると、
「日本人の方ですか?」
「ええ、そうですけど」
「時間はありますか?」
女は頷いた。
「よろしかったら、隣に座りませんか? 迷惑なら……」
「いいの。実をいうと、私も暇を持て余していますの」と女は座った。
高木はボーイを呼んだ。
「コーヒーで良いですか?」
「いいえ、ビールをいただくわ、少しはしたないかしら?」
「いいえ、少しもはしたなくはありませんよ」
高木をすぐさまボーイを呼びビールを注文する。すぐにビールが運ばれてきた。高木はグラスにビールを注いだ。女は優雅に一口飲んだ。
「喉が乾いていたの」
高木はそっと女の顔をみた。端正な顔立ちをしている。
「どちらからきたんですか?」
「東京から。あなたは?」
「福岡から」
「福岡、あの明太子の福岡かしら?」
「そうです」
「バンコクで何をしているの?」
「旅行ですよ。そう言うあなたは?」
「私も」
「一人で?」
「ええ、おかしいかしら?」
「いや、ちっとも。でも、あなたほど美しい一人だなんて、何か不自然だな」
女は黙って街灯に照られた外の景色を見ていた。口元にうっすらと笑みを浮かべた。高木もつられて外の景色を見た。
雨はいつしか止み、椰子の艶やかな葉が街灯に照らされて輝いている。
高木がふと女の方を見ると、女も自分の顔を見ていた。女はにこり笑った。
「何か顔をついていますか?」
「いいえ、何も。不思議ですわ。さっき会ったばかりなのに、ずっと昔から知っていたような気持ちがするの。きっと、お酒のせいね。酒に弱いくせに好きなの。おかしいでしょ? それとも、みっともないかしら?」
「いや、その何れも違うな」
「よかった。私は町田麻衣子というの。あなたは?」
「僕は高木豊です」
いつしかグラスのビールは無くなっていた。
「今度はワインでいいですか?」と高木が聞くと、彼女はうなずいたので、ワインを注文した。
「聞いていいかしら?」
「何でも」
「何をなさっているの? ちょっと待ってあてるから。商社マンか、銀行員」
高木は首を振った。
「じゃ、新聞記者ね、それとも大学の助教授ってところかしら?」
「みな違います。ただ単なる遊び人ですよ。ちょいとルポライター真似事をしていますが」
「このバンコクには?」
「東南アジアで、日本が何をしているのか、調べに来たんです」
「良いことをしています?」
「ちっとも、でも資本主義の法則に則って活動しているだけです」
「資本主義の法則?」
「投資して利益を上げる。それだけのことですが、その利益が人を傲慢にするんです。資本が何か創造するなんて、現代の大いなる幻想です。破壊するだけですよ。この国の美しいものを、資本主義が破壊しています」
「そうかしら?」と、麻衣子は溜息をついた。
「……つまらない話をしてしまいました。言っておくけど、僕は無思想です。あらゆる思想から離れています」
「神も仏も信じていないの?」
「信じていません。大学でサイエンスを学んだ人間ですよ。論理的に証明できないものは信じません」
「でも、自分を信じているでしょう?」
「それはそうでしょう。仮に間違いであったせよ、自分を否定して生きられません」
「現代って、何を信じていいのか分からない。実に不幸な時代ですわ」
「時代が不幸なのじゃない。人間が不幸になっただけです」
麻衣子は時計を見た。何か思いたったかのように席を立ち、レシートを取ろうとすると、高木は、「ここは僕が払いますよ」
麻衣子は軽く頭をさげて、「これで失礼しますわ」と言った。
「また、ご一緒、出来ますか?」
「時間があれば」と麻衣子は微笑みながら答えた。
翌日、高木は大学時代からの友人である明石憲一と昼食を共にした。
三年ぶりの再会だった。
土着の遊び人みたいな恰好している高木に対して、明石はどこからもみても、サラリーマンとわかる恰好してきた。それが妙におかしくて高木は笑った。
「何がおかしい?」と明石は口火を切った。
「気にするな。つまらないことを思っただけだ」
「ところで、いまだに独りか?」と明石は聞いた。
「未だに独りだ」
「良いよな、自由で」と明石は羨ましそうに言う。
高木は明石の話よりも麻衣子のことが気になって仕方なかった。
「ときとして自由ほど退屈でやりきれないものはないよ。明石、お前はどうなんだ?」と
「七年前に結婚したが、つい最近別れた」
「じゃ、君も同じ独りものじゃないか」
「まあ、そうだが。子供がいる」
「女は好きか?」と明石が唐突に聞いた。
「藪から棒に何だ?」
「女は好きかと聞いているんだ」
「嫌いじゃないさ」と高木はそっけなく答えた。
「じゃ、気をつけな、この国はいい女はたくさんいるが、エイズも蔓延している。噂じゃ売春婦の半分は感染しているという学者もいる。遊ぶ場所を知りたいなら、教えてやっていいぞ」と明石は意味ありげにほほ笑んだ。
明石がこのタイに来て五年経つ。バンコクの隅々まで知りつくしている。どこにどんな売春宿があるかも。
「ああ、気をつけるよ。だが、俺には相手がいる。そういう、お前こそ、女に不自由していないのか?」
相手はいなかった。だが、なぜか昨日、初めて会った麻衣子の顔を浮かび、「いる」と答えてしまったのである。
「つい最近まで女房がいた。今はいないけどな、でも……」
「でも、何だ?」
「もう女には飽きたよ」
「女には飽きたか?」
「ああ、飽きた」
「人の話によれば、君の女房は美人で評判高かったが、何で別れた?」