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一人暮らし、ささやかな夢を実現して

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 電話の後、いろいろ考えた。もう一度、頼んできたなら、彼のために金を工面しよう。父親に三つ指をついてもかまわないとも思った。しかし、何日、経っても、ワタルから電話は来なかった。ワタルは、美里の「少し考えさせて」という言葉を、「金は用意できない」という拒絶の言葉だと勘違いしたのである。藁にもすがるも思いだったが、その藁さえつかめないと悟り、死を決意するに至った。一週間後、自殺した。死ぬ直前、美里に電話をかけてきた。たった一言である。
「これから死ぬ」
「何で?」という前に電話は切れた。
急いで彼のお父さんに連絡とって、みんなで探したが見つからなかった。結局、実家から遠く離れた浜辺に車を止め、その中で農薬を飲み亡くなっていた。美里宛に、「本当に好きだった」という遺書があった。
葬儀のとき、美里は、彼の父親に、「お金を貸してくれ」と頼まれたのに、力になれなかったことを詫びた。すると、父親は、「あなたは少しも悪いのではないのです。みんな、私が悪いのです。私が用意できれば死なずにすんだのに……」と言葉をつまらせた。

恋人の死を経験してから、美里は恋愛には慎重になった。というよりも臆病になった。また、自分の周りの人が死ぬということに対して、過敏になった。会社には言っていなかったが、密かに精神科医のカウンセリングを受けている。……実家にいるときは、「実家というかごから飛び出して、働いて自立すること」が明快な夢だったが、その夢は実現したが、心のどこかがぽっくりと穴が開いている。その穴ができたのは恋人を失ったせいでできたものだと彼女自身も分かっていたが、本当にそれだけかが分からなかった。 美里はあらためて自分は何のために生きて、何が望みなのかを考えてみた。だが、どんなに考えても、その答えを見つけられなかった。

週末、美里はマンションの近くにある音楽バーに訪れる。もう五年が経ち、常連になっていた。同じように常連客で秋川トオルがいる。彼は自称売れない画家である。がっちりした体をした五十前後の男で、ひげを生やしている。二人はいつしか飲み仲間となっていて、美里は彼に心を寄せている。
 梅雨も終わろうという七月末の晩、バーの客の美里と秋川だけ。
 美里が独り言を言うように、「家を出てからもう十二年が経ちました。この金沢に住んで十年が経ちます」と秋川に話しかけた。
「十年か、長いな。俺は早期退職して金沢に引っ越してきた。もう五年が経つ。好きな絵を描いたり、旅をしたり、自由きままに暮らしている。だが、もう十年すると、その自由気儘な生活を支えた資金が枯渇する。そのときは、どこか海でも入ってこの世を去ろうと考えている」と秋川は笑う。
「随分、大胆な考えですね。でも、死ぬなんて軽々しく言わないでください」
美里がにらむ。
「そんな怖い顔をするな」
「人が死ぬのを見るのも聞くも嫌なんです」。
「でも、避けることは誰にもできない。ところで、恋人はいないのか?」と秋川はぶっきらぼうに聞く。
「今はいません。きっとそんな簡単にできない気がします」と微笑む。
「まだ三十だろ? まだ時間はたっぷりとある。恋をする気はないのか? まさか独身主義者じゃないだろ?」と秋川は笑った。
「こんなこと秋川さんに言うのも変ですけど」と美里は自殺した恋人の話をした。
秋川は愕然とした。いつも明るく、人に対する気配りも抜群の彼女が、これほどまでに重いものを抱えていたのかと驚いた。
「変なことを聞いて悪かった」
 美里は首を振った。
「良いんです、いつか誰かに話したいと思っていました」
「相談したいことがあるんです」
 秋川は恐縮した。
「私で良ければ」
「父が入院したという知らせを母から聞きました。金沢に来てから、父の顔を見ていません。見舞いに行った方がいいと思いますか? 子供じみた話ですよね。『女には学問なんか必要はない』と言った父が許せないんです。もうずいぶん前のことなのに。『親子の縁を切る』とも言われました。そんな父に対するわだかまりが消えないんです。父から、『見舞いに来い』と言われたら、きっと何のためらいもなく行けたと思いますけど」
「人生には、いろんな場面で決断を迫られるときがある。自分で出した答えなら、どんなに失敗しても納得できる。人の考えは聞いてもいいけど、従うものではないよ」
「そうだと思います」
「わだかまりなんか、時間とともに消えるものだ。憎しみなんかとっておいても重いだけだ。たとえ一文無しになったとしても、悩んだりはしない。悩んだところで、何も得られるものなどありはしない。自分で良いと思ったことを行い、後の結果は神に委ねるのが一番だ」
「意外とまじめなことを言うんですね」
「変かい?」
「変です。とても」 
「最後に一つ聞いていいですが?」
「いいよ」
「血のつながりは大切ですか?」
「大切だと思えば大切。大切でないと思えば、大切でない。全て、君の気持ちしだいだ」
「その自分の気持ちが分からないのです」と美里は笑った。
「僕の考えを言おう。見舞った方が良いと思うよ。だって、気にしていることは、心のどこかでそうしたいという思いがある証拠だ」

 美里は父を見舞うことにした。
梅雨が明けた七月の下旬、美里は富山行きの列車に乗った。
早くも夏の予感させるような強い日が射す窓からずっと外を眺めていた。列車は海辺に沿って走り、時折、青い海が光を集めて輝く様子も眺めることができたが、単調な風景に飽きたのが、美里はいつしか眠りに落ちた。目覚めると、列車はもう富山駅に近づいていた。
駅に着くと、佳恵が迎えにきていた。ずいぶんと痩せていることに美里は驚きの色を隠せなかった。
車の中で、美里は、「お父さんはどうなの?」と聞いた。
「がんだと言っていた」
「大丈夫なの?」
「治ると思うよ。今やがんは年をとったら当たり前の病気よ。めずらしい病じゃない。でも、お父さんは随分弱気になっている。前と同じと思っていたら、きっと戸惑うと思う」
車は、実家のある村に入った。
何もない村。時間の止まったような村。少女の頃、ずっとこの村から出ることだけを夢みていた。何もかも捨てて遠くへいくことを夢みていた。ふと、あの頃に戻りたい気持ちに駆られた。
 車は実家に近づいていく。
美里は十四年ぶりに実家の前に立ったとき、懐かしさを感じながら、妙に胸が高ぶった。同時になぜ十年戻らなかったのかとあらためて考えてみた。やはり父と会いたくなかったのか。
 吉川家はこの地方でも有数の名家である。明は五代目である。大正時代に建てられたもので、周りの家と比べると、ひときわ大きい。
 玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
家に入った。
「何も変わっていないね」と美里が言うと、
「昔から変わっていないわよ。たぶんあなたが生まれる前から」
「建てられてどのくらい建つかな?」
「百年、いや九十五年くらいかな、正確には、お母さんにも分からない」と佳恵は笑った。
「時間が止まったみたい」
美里は中庭を眺めた。木立の合間の古い池にあり睡蓮の花が咲いている。鏡のような水面は夏のような青空をまぶしく映している。時折、白い雲が軽やかな足取りでその上を過ぎていく。