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一人暮らし、ささやかな夢を実現して

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『一人暮らし、ささやかな夢を実現して』

吉川美里が十八歳の春のときのことである。大学進学するか、就職するかという選択を迫られたとき、だめもとで父親である明に東京の大学進学を懇願してみることにした。ちょうど夕食前である。
ダイニングルームで新聞を開こうとする明に向って美里は言った。
「相談があります」
 明は面倒くさそうに聞いた。
「何だ?」
「お願いがあります」
「だから何だと聞いている」
「東京の大学に行かせてくだたい」と美里は膝をついて頭を深く下げた。
小さな建設会社の社長をしている明は頑固な保守主義者で、女性に関しては器量が良くて家庭を守れば良いとしか考えていない。家の中では、絶対君主で、誰も口を挟むことは許されない。妻である佳恵も常に夫に従った。明は息子であるマモルだけを可愛がり、娘の美里はぞんざいに扱ってきた。少なくとも美里にはそう思えた。 
「東京で一人暮らし? 冗談も休み休みに言え」と明は怒った。
「どうしてです。お兄様は大阪の大学に行かせてもらっています」
「男だからだ。それに長男だ」
「どうして、私はダメなんですか?」
「女だからだ。都会に出れば、ろくなことはない。人生がぐちゃぐちゃになる。勉強したところで女の幸せは得られない」
「どうして言い切れるんですか?」
「そういう女を何人も見てきたからだ」
明が言う、そういう女とは身を崩し夜の街で働く女たちである。
「そもそも女に学問は必要ない。美里、お前の人生は俺が決めてやる」
明はそういうと美里に向かって微笑む。
美里は父のいう人生を考えてみた。高校を卒業すれば、父の会社に入れさせられ、すぐに花嫁修行させられる。二、三年後には、父が花婿を決め結婚させられる。そんな人生に何の魅力も感じない。駕籠の中で飼われた小鳥のような人生である。もっと自由に生きたい。心の中でもう一人の自分がそう叫ぶ。
美里は静かに問いかける。
「では、お父様、伺いますけれど、女には何が必要何でしょうか?」
明は少し顔を赤らめて、「赤ちゃんが生める丈夫な体だ。それで十分だ」
美里の大きな眼は怒りでいっぱいになった。怒りは、彼女の口に蓋をした。立ち上がった。そして、
「高校を卒業したら、私は一人で行きます」と美里は宣言すると、ダイニングルームから去ろうとした。
ずっと見守っていた母親である佳恵が心配そうな顔して、
「どうしたの、美里さん。食事は?」
 美里は返事をしないで、そのまま出て行った。
「ほっとけ」
美里は学校でもなじめず、ずっと独りぼっちだった。少女時代の彼女にはどこにも居場所がなかった。それゆえ、ずっと夢見ていた。カゴの中の鳥のような生活から抜け出し、遠いところで一人暮らしすることを。
数週間後、佳恵が美里に向かって、「お父様は、地元の専門学校なら良いって、おっしゃっているわ。『専門学校を出たら、いい相手を見つけてやるから、早く結婚しろ』とおっしゃっているの。悪くないでしょ?」
美里は母親である佳恵は嫌いではなかったが、何事も夫に従う、その姿に幻滅していた。口にこそしなかったが母親のような生き方をしたくない。それが美里の夢でもあった。
「自分の道は自分で切り開きます。お父様にも、そう伝えてください」と美里と強い口調で言った。
「自分の道を開くって、どういうこと?」
「新聞配達しながら、専門学校に行きます」と新聞社の広告を見せた。
「そんな大変なこと、あなたに出来るの?」と佳恵は狼狽した。
「やります」と宣言した。
その夜、佳恵はそのまま明に告げた。
「あいつが東京で一人暮らし、女の分際で何ができるというのだ」と明は高笑いした。
後日、父親から『親子の縁を切るぞ』と脅されたが、美里は、「かまいません」と静かに答えた。
 旅立ちの日、明は見送らなかった。

 二年間、新聞配達して無事専門学校で学んだ。卒業後、金沢のホテル業を中心としたN社に勤めた。驚くほど封建的な会社だった。小さな社長の前で、みんな米つきバッタのように平身低頭して働いた。美里にとって滑稽で馬鹿馬鹿しい光景であったが、それでも精一杯頑張った。一年が過ぎた。単なる事務員扱いだった。二年が過ぎてもそうだった。
美里は、「一人前の仕事をさせてくれと」社長に直訴した。すると、社長は、「そんなにやりたいなら他の会社へいけ」と言った。その一言で会社を辞めた。二十三の時だ。

それから、いろんな会社を渡り歩いた後、ある外食チェーンに勤めた。自営業している橋川ワタルとも出会った。彼は美里が悩んでいるといつも慰め、励まし、アドバイスした。彼の言葉を支えにして、美里は頑張った。誰よりも勉強し、誰よりも一生懸命働いた。あっという間に七年が過ぎた。彼女の働きによって、店の売り上げが七年で倍になり表彰を受けることになった。表彰状を渡すとき、営業部長が、「この会社に君が必要だ」とみんなの前で言った。彼女は嬉しくて涙を流した。自分を必要としてくれるということがすごく嬉しかったのである。
 
ワタルが信頼する友人の連帯保証人になった。その友人が二千万の借金を返済しないまま消えた。一瞬のうちに、ワタルは二千万の借金を抱えてしまった。父親と一緒に金策に奔走したが、なかなかうまくいかなかった。最後には、美里にまで泣きついて、「金が必要なんだ、余裕があるなら、貸してくれないか?」と頼んだ。
「どのくらい?」
「二千万ほど」
「そんなに」と美里は思わず驚きの声をあげた。
「五百万くらいでもいい。いや二百万でも百万でもいい」
あいにく彼女も金がなかった。必死に働き五百万ほど貯えたが、犀川の辺にある中古マンション購入で使ったばかりだったのである。だが、彼のために借金することもできた。恥も外聞も捨て、父に泣き付くこともできた。父に頼めば、一千万くらい貸してくれるかもしれない。だが、簡単にはできない。なぜなら親子の縁を切って家を出たのである。考える時間が欲しくて、「少し時間をちょうだい。考えさせて。すぐに決心がつかない」と答えた。
 美里がこわばった顔をしたのを見て、「変な話をしてごめんよ。忘れてくれ」と彼は笑った。
とてつもなく哀しそうな笑顔であることに美里は気付き、
美里が、「本当にいいの?」と聞くと、
「冗談で言っただけだ」
 二人の間には、まだ肉体関係はなかったが、もう何年も前から美里は彼を受け入れる心の準備ができていた。自分の方から誘うかとも思っていた矢先の借金話であった。
 その夜、実家に電話した。父親と縁を切ったが、母親には定期的に電話をした。
「お母さん、『お金を貸して』と頼んだら、お父さんは怒るかな?」
「額によるわよ」
「たとえば五百万なら」
「そんな大金、電話で頼める額じゃないわよ。あなたのために使うの?」
「そう自分のためよ」
「マンションでも買うの?」
「そうよ」
「それなら、家に戻ってきてお父さんに、三つ指をついてお願いしなきゃだめよ」
「それで貸してくれるかしら?」
「正直言って難しいと思う」
 それで終わった。