香りの記憶
俺は塩素ガス中毒の症状を記憶の底から取り出そうとした。
塩素ガスはサリンなどと同じ神経毒だ。喉や目だけでなく、既に中枢神経まで症状が及んでいるのかも知れない。塩素ガスは空気より重く、部屋の下から溜まって行く。だから、姿勢が低くなればなるほど、高濃度の塩素ガスに曝されることになる。
しかし、俺の足には、既に立ち上がる力は残っていなかった。俺は四つん這いのまま、ドアに向かった。狭い浴室だから、ドアまでほんの数十センチにすぎない。しかし、その数十センチがとてつもなく遠かった。手も足も、言うことを聞かなかった。俺は四つん這いの姿勢すら維持することができず、うつ伏せに倒れこんだままもがいた。喉がヒリヒリと痛み、呼吸ができなかった。息を吸うたびに胸に激痛が走り、息を吐くたびにすさまじい痛みが胸を襲った。
俺がここで死んだら、娘は、澪はどうなる。一人きりになってしまうじゃないか。俺は死ねない、死んでたまるか。
俺は力を振り絞ってドアに向かって這った。しかし、手も足も俺の思い通りに動いてくれない。とうとう俺はドアまであと10センチという所で、力尽きてしまった。もう、1ミリも動くことができない。もう頭も目同様に霞がかかり、考えることができなくなっていた。そのぼんやりとした脳裏に、娘の顔が浮かぶ。
俺は全身の力を込めて最後の息を吐きながら、娘に謝った。
「すまない、おまえを残して逝く俺を許してくれ!」
しかし、それは声にならなかった。ただ木枯らしのような息が、口から洩れただけだった。
作品名:香りの記憶 作家名:sirius2014