香りの記憶
俺は家に着くとスーツから部屋着に着替え、早速洗濯物を取り込んで、たたんだ。はじめの頃は、娘の肌着をたたむのが気恥ずかしかったが、もう慣れてしまった。洗濯物をたたみ終わって、風呂掃除をすることにした。
俺はズボンの裾をまくって浴室に入った。二人きりなのに、無駄に広い浴室だった。浴室を見回してみると、タイルとタイルの間がカビで黒くなっているのが目についた。どうせ掃除するのだから、このカビも落としておこうと思った。
洗面所の物入れからカビ落とし用の洗剤を取り出し、タイルの隙間で黒っぽくなっている所を選んで、カビ取り剤を吹き付けていった。
このまましばらく放置する間に、風呂場の床を洗ってしまおうと思った俺は、さっき買ってきたばかりの洗剤の封を切った。その洗剤は、いつも使っているのとは違う製品だった。急いでいたので、洗剤売り場にあったものをろくに見ないで買って来てしまった。まあ、風呂の洗剤なんて、どれでもたいした違いはないだろう。俺は洗剤をスポンジに染み込ませ、泡立ててから、しゃがみ込んで床のタイルをこすった。隅は特に念入りにこすって汚れを落とさなければ。
そうしてしばらく、床のタイルをこすっていたときだった。
なんだか息苦しいと感じたと思ったら、咳が出始めた。
おかしいな、風邪でもひいたかな、と思いながらも咳はどんどんひどくなって行く。喘息にでもなったように、止まらない。喉が痛くなってくる。
おまけに、目がかすみ始めた。目の前が白くかすんだようになって、よく見えない。何度も目をこすってみても、変わらない。
俺はふと気になって、片手に持っていた洗剤のラベルに目をやった。かすむ目を懸命にこらして、ラベルを読み取る。
なんとかラベルを読み取った俺は愕然となった。
俺が手に持っていたのは、風呂用の洗剤ではなく、トイレ用の洗剤だった。
つまり、俺は塩素系のカビ取り剤と酸性のトイレ用洗剤を混ぜてしまったのだ。つまり、今この浴室の中には、猛毒の塩素ガスが充満しつつあるのだ。
俺はあわてて浴室のドアに向かおうと立ち上がろうとした。とたんに足がもつれて床に両手をついてしまった。
作品名:香りの記憶 作家名:sirius2014