拝み屋 葵 【参】 ― 西海岸編 ―
葵の脇には白いリムジンが停まっていた。
後部座席のドアが乗車されるのを待って開かれたままになっている。
「乗りや」
ジョーは口笛を吹いておどけてみせる。
ビバリーヒルズの恋人たちは、こういうときに気の効いた胸焼けする青いセリフを垂れ流しては、キラキラとした健全な光で互いを照らし合うのだろう。
ジョーは何か言おうとして口を開きかけたとき、葵の眉間にさっきよりも深い溝が刻まれたのを目撃してしまった。
これ以上歪んだ綺麗な顔を見てしまうと、リムジンの中で大人しくしている自信がなくなってしまう。そういう誘いではないという現実を理解しているからこその妄想で、妄想だと割り切っていなければ自己嫌悪のダウンスパイラルから抜け出せなくなってしまう。
「すげーや、リムジンなんて初めて乗る」
淡々と興奮していることだけを伝えて、慌てていると気付かれないように、しかし、迅速に乗り込む。
リムジンはジョーがシートの感触を確かめている間に発進する。
いつの間に乗り込んだのか、葵は何処とは無しに窓の外を眺めていた。
「なぁ、一つ聞いていいか?」
「一つだけやで」
思いのほか早かった返答に出鼻を挫かれたこともあるが、一つだけと限定されたことで訊きあぐねてしまったジョーは、果たしてどれを訊くべきかと首を捻った。その実、何も考えてはいない。
「ウチな、UCLAに留学して来たねん。どこぞのオッサンが怪我したぐらいでわざわざこんな遠くまでけーへんよ」
葵は頬杖をついた姿勢のままで、静かに話し出した。
それが本当なら、この出会いは奇跡だ。ディマジオとマリリンと、ついでにヴァルが引き会わせてくれた。怪我をしたボブにも感謝しなければならないかなとジョーは思った。
「LAには別件で来たんや。気を悪くせんといてな? ほんでな、昨日その別件も片付いたさかい、あとは日本に帰るだけやってんけど……」
ジョーは眩暈に襲われる。それを気取られぬようシートに上半身を投げ出して顔を背け、そんな話に興味はないと身体で意思表示する。
「まぁまぁ、聞いてや」
葵は話を続けていたが、ジョーは上の空。半分以上がすり抜けてゆく。
辛うじてジョーの頭に残ったのは、明日の朝の便で日本に帰ること、今夜のパーティが終わり次第、空港付近のホテルに向かうこと、そして……。
「いま、なんて?」
「せやから、ウチの恋人のフリしたって欲しいねん」
* * *
「なんや、思ったより似合っとるやんけ」
時刻は午後八時。
パーティ会場でジョーと合流した葵は、タキシードに身を包んだジョーにそう言った。
葵は、ジョーをその界隈では有名な、少なくとも上から数えた方が早いポジションにある店に残し、自分の準備に向かっていたため、彼がどのように磨き上げられて行ったのかを目撃していない。それを見ていれば、いい土産話になっただろう。
髪を切り揃え、血色の悪い顔色を化粧で隠されたジョーは、“それなり”の男に仕上がっていた。
「普通は男が女を誉めるもんだろ」
「細かいこと気にしたらアカンよ。禿げるで?」
ジョーは無意識に額に手を伸ばす。
「大丈夫やって。まだ、な」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
物事を反対に映す鏡があったら、自分が笑った顔はこんな風に映るだろうなとジョーは思う。真っ先に忘れてしまった物の中には、あんな笑い方があったのかもしれない。あったのかどうかも、とっくに忘れてしまっている。
アイライン、チーク、口紅、夜会巻き、赤のマーメイドドレス。
本来ならば葵を飾り立てるはずのそれらは、彼女の真の魅力を覆い隠してしまっているだけだった。
勿論、ドレスアップした彼女は美しい。赤と黒の組み合わせが持つ威力を知らない男は、このロサンゼルスにはいない。いたとすれば、知らないのではなく忘れてしまったのだ。それでもないとすれば、慣れ過ぎて感覚が麻痺してしまっている。
ジョーは葵の白い歯を見てそのことに思い至った。
上品で清楚でさらに知的な女性を思わせる葵の姿を見ても、ジョーのコックはピクリとも反応しない。もっとも、ドレスアップした女を見ただけでいちいち反応していたら、毎日大忙しになってしまうから、そう言う意味での反応ではない。
貴賓とまでは言わないが、一応の賓客として招待されているため、葵は方々に挨拶をしなければならなかった。ジョーはずっと彼女の横にくっついて歩く。
「僕は必要だったのか?」
「やで」
葵はあっけらかんと言ってのける。
そうは言われても、何かをやったという実感が全くない。
ジョーは恋人のフリという設定にもっと深い関係を期待していたのだが、“ストイックな関係を築いている”などという馬鹿げた前置詞が付属しているらしかった。そんな自分の甘い考えに、ほとほと愛想が尽きた。
「はよ帰りたいわ」
ぽつりと漏れた葵の呟きは、ジョーの心に大きな波紋を生んだ。
「葵……は、イヤなのか?」
「ウチ? こういう場は苦手やねん」
二人はどちらからともなく、会場の端に向かって歩き出す。
壁際までたどり着くと、葵は壁を彩る華になった。
シャンパンが注がれたグラスを載せたトレイを運ぶボーイが、つい、と二人の目の前を通り過ぎる。
「そう。でも、綺麗だよ」
葵は何の反応も見せない。それは聞こえてないのでも、聞こえない振りをしているのでも、照れてどう反応してよいか迷っているのでもない。
無視されたのでもないことを、ジョーは理解していた。
『綺麗だよ』という言葉が、ジョーの本心から出た言葉ではないから。だから、葵は聞かなかったことにしているだけだ。
「抜け出さ……ないか?」
ジョーはぎこちなく笑う。それはクールとは程遠いけれど。
「どこに連れてってくれんねん?」
「夢の国」
「ネズミはんのところは一晩じゃ回られへんやろ」
「じゃ、夜の国。愛の国でもいいや」
「それはいったい何処のことやねん」
リチウムはとっくに切れている。なのに、ジョーは不思議と苛立ちに襲われていなかった。
この会場には人を見下せるという特権を手に入れた連中が集っている。そうであれば、どの面を見ても苛立っておかしくないし、どの話を耳にしても反吐が出るような気持ちになっておかしくない。
何故なのか、思い当たることはある。だがそれを認めてしまえば、色んなものを失うことになる。
しがみついてまで守るものなんて、何もなかったはずなのに。
葵は足早に通り過ぎるボーイのトレイから、二つのシャンパングラスを器用に拾い上げた。その一つをジョーに差し出す。
会場では生バンドによる演奏が始まっていた。ナントカという世界的にも有名な曲なのだが、葵はそれについて感心を持っていない。
「外、出えへんか?」
シャンパングラスを片手にした貴婦人は、静々としながらも着実に進む。
テラスへ。
数名ほど存在していた先客たちは、生バンド演奏が始まったことに気付くと、吸い寄せられるように会場へと戻って行ったが、数分も経てば静けさを求める者たちで溢れかえるだろう。
葵は大きく伸びをする。
「かなんわぁ」
ジョーは、葵の“彼女らしさ”を見て安心した。
後部座席のドアが乗車されるのを待って開かれたままになっている。
「乗りや」
ジョーは口笛を吹いておどけてみせる。
ビバリーヒルズの恋人たちは、こういうときに気の効いた胸焼けする青いセリフを垂れ流しては、キラキラとした健全な光で互いを照らし合うのだろう。
ジョーは何か言おうとして口を開きかけたとき、葵の眉間にさっきよりも深い溝が刻まれたのを目撃してしまった。
これ以上歪んだ綺麗な顔を見てしまうと、リムジンの中で大人しくしている自信がなくなってしまう。そういう誘いではないという現実を理解しているからこその妄想で、妄想だと割り切っていなければ自己嫌悪のダウンスパイラルから抜け出せなくなってしまう。
「すげーや、リムジンなんて初めて乗る」
淡々と興奮していることだけを伝えて、慌てていると気付かれないように、しかし、迅速に乗り込む。
リムジンはジョーがシートの感触を確かめている間に発進する。
いつの間に乗り込んだのか、葵は何処とは無しに窓の外を眺めていた。
「なぁ、一つ聞いていいか?」
「一つだけやで」
思いのほか早かった返答に出鼻を挫かれたこともあるが、一つだけと限定されたことで訊きあぐねてしまったジョーは、果たしてどれを訊くべきかと首を捻った。その実、何も考えてはいない。
「ウチな、UCLAに留学して来たねん。どこぞのオッサンが怪我したぐらいでわざわざこんな遠くまでけーへんよ」
葵は頬杖をついた姿勢のままで、静かに話し出した。
それが本当なら、この出会いは奇跡だ。ディマジオとマリリンと、ついでにヴァルが引き会わせてくれた。怪我をしたボブにも感謝しなければならないかなとジョーは思った。
「LAには別件で来たんや。気を悪くせんといてな? ほんでな、昨日その別件も片付いたさかい、あとは日本に帰るだけやってんけど……」
ジョーは眩暈に襲われる。それを気取られぬようシートに上半身を投げ出して顔を背け、そんな話に興味はないと身体で意思表示する。
「まぁまぁ、聞いてや」
葵は話を続けていたが、ジョーは上の空。半分以上がすり抜けてゆく。
辛うじてジョーの頭に残ったのは、明日の朝の便で日本に帰ること、今夜のパーティが終わり次第、空港付近のホテルに向かうこと、そして……。
「いま、なんて?」
「せやから、ウチの恋人のフリしたって欲しいねん」
* * *
「なんや、思ったより似合っとるやんけ」
時刻は午後八時。
パーティ会場でジョーと合流した葵は、タキシードに身を包んだジョーにそう言った。
葵は、ジョーをその界隈では有名な、少なくとも上から数えた方が早いポジションにある店に残し、自分の準備に向かっていたため、彼がどのように磨き上げられて行ったのかを目撃していない。それを見ていれば、いい土産話になっただろう。
髪を切り揃え、血色の悪い顔色を化粧で隠されたジョーは、“それなり”の男に仕上がっていた。
「普通は男が女を誉めるもんだろ」
「細かいこと気にしたらアカンよ。禿げるで?」
ジョーは無意識に額に手を伸ばす。
「大丈夫やって。まだ、な」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
物事を反対に映す鏡があったら、自分が笑った顔はこんな風に映るだろうなとジョーは思う。真っ先に忘れてしまった物の中には、あんな笑い方があったのかもしれない。あったのかどうかも、とっくに忘れてしまっている。
アイライン、チーク、口紅、夜会巻き、赤のマーメイドドレス。
本来ならば葵を飾り立てるはずのそれらは、彼女の真の魅力を覆い隠してしまっているだけだった。
勿論、ドレスアップした彼女は美しい。赤と黒の組み合わせが持つ威力を知らない男は、このロサンゼルスにはいない。いたとすれば、知らないのではなく忘れてしまったのだ。それでもないとすれば、慣れ過ぎて感覚が麻痺してしまっている。
ジョーは葵の白い歯を見てそのことに思い至った。
上品で清楚でさらに知的な女性を思わせる葵の姿を見ても、ジョーのコックはピクリとも反応しない。もっとも、ドレスアップした女を見ただけでいちいち反応していたら、毎日大忙しになってしまうから、そう言う意味での反応ではない。
貴賓とまでは言わないが、一応の賓客として招待されているため、葵は方々に挨拶をしなければならなかった。ジョーはずっと彼女の横にくっついて歩く。
「僕は必要だったのか?」
「やで」
葵はあっけらかんと言ってのける。
そうは言われても、何かをやったという実感が全くない。
ジョーは恋人のフリという設定にもっと深い関係を期待していたのだが、“ストイックな関係を築いている”などという馬鹿げた前置詞が付属しているらしかった。そんな自分の甘い考えに、ほとほと愛想が尽きた。
「はよ帰りたいわ」
ぽつりと漏れた葵の呟きは、ジョーの心に大きな波紋を生んだ。
「葵……は、イヤなのか?」
「ウチ? こういう場は苦手やねん」
二人はどちらからともなく、会場の端に向かって歩き出す。
壁際までたどり着くと、葵は壁を彩る華になった。
シャンパンが注がれたグラスを載せたトレイを運ぶボーイが、つい、と二人の目の前を通り過ぎる。
「そう。でも、綺麗だよ」
葵は何の反応も見せない。それは聞こえてないのでも、聞こえない振りをしているのでも、照れてどう反応してよいか迷っているのでもない。
無視されたのでもないことを、ジョーは理解していた。
『綺麗だよ』という言葉が、ジョーの本心から出た言葉ではないから。だから、葵は聞かなかったことにしているだけだ。
「抜け出さ……ないか?」
ジョーはぎこちなく笑う。それはクールとは程遠いけれど。
「どこに連れてってくれんねん?」
「夢の国」
「ネズミはんのところは一晩じゃ回られへんやろ」
「じゃ、夜の国。愛の国でもいいや」
「それはいったい何処のことやねん」
リチウムはとっくに切れている。なのに、ジョーは不思議と苛立ちに襲われていなかった。
この会場には人を見下せるという特権を手に入れた連中が集っている。そうであれば、どの面を見ても苛立っておかしくないし、どの話を耳にしても反吐が出るような気持ちになっておかしくない。
何故なのか、思い当たることはある。だがそれを認めてしまえば、色んなものを失うことになる。
しがみついてまで守るものなんて、何もなかったはずなのに。
葵は足早に通り過ぎるボーイのトレイから、二つのシャンパングラスを器用に拾い上げた。その一つをジョーに差し出す。
会場では生バンドによる演奏が始まっていた。ナントカという世界的にも有名な曲なのだが、葵はそれについて感心を持っていない。
「外、出えへんか?」
シャンパングラスを片手にした貴婦人は、静々としながらも着実に進む。
テラスへ。
数名ほど存在していた先客たちは、生バンド演奏が始まったことに気付くと、吸い寄せられるように会場へと戻って行ったが、数分も経てば静けさを求める者たちで溢れかえるだろう。
葵は大きく伸びをする。
「かなんわぁ」
ジョーは、葵の“彼女らしさ”を見て安心した。
作品名:拝み屋 葵 【参】 ― 西海岸編 ― 作家名:村崎右近