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拝み屋 葵 【参】 ― 西海岸編 ―

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(四) Flower of an hour


 ロサンゼルス中の人間が嘲笑するような綺麗事。
 脳裏に浮かぶ彼女が口にするのは、まさしくそれだ。
『もっとロングビーチの太陽に馴染め』今日も病院のベッドの上で看護士を相手に妄想の華を咲かせている親友のボブがそう言ったのは、忘れもしないし忘れられもしない苦い惨めな経験をしたあの日のことだ。演技だと思っていた二人の女の絡みが実は本物の情事であったなど、笑い話ならばともかく実体験としては笑えない話だ。
 リチウムのおかげで思い出してもさほど苛立ちは起こらないのだが、効きすぎているのかそれほど鮮明に思い出せているわけでもない。
 小柄な女が好きだ。入り込めそうで入り込めない隙間のある横顔には、愁いを帯びた潤んだ黒い瞳が光る。もしそれが自分に向けられていたらなどとありもしない妄想に希望を抱いてみては、ピントがずれてぐにゃりと歪んでしまったアジアンビューティーに絶望してみたり。ピントがずれて歪んでしまう原因は自分が目を逸らしていることにあるとわかっているのだから救いようがない。いや違う。逃れようがない。救いようがないのはこの期に及んで逃げようとしている自分だ。
 ジョーは気怠い身体をベッドに放りだしたまま目を閉じる。
 眠ろう。目が覚めたときにはすべてが夢だったのだと諦めがついているだろうと思い、ついぞ眠れなかった夜と何も変わらずに迎えた朝の数がイコールで結ばれている。今のところは、だ。
 眠れなかった夜と目覚めても変わっていなかった朝の数という計算式に変わる日がそのうち来るだろう。

 変化。
 その言葉はジョーに重く圧し掛かる。ディマジオの花束から一本抜き取ったあの日から、どうにもクールに笑えない。
 この界隈ではクールであることが当たり前。つまらない、という表情を常に作り続けていなければならない。だが彼女は自然体のまま、楽であるはずの馬鹿のままでいるはずなのに、何を愁い何を憂うのか。そもそも、彼女は本当に楽であるのか? その疑問にたどり着く直前になると予定調和のように意識はブラックアウト。訪れる数十秒の平和。安息。偽物の。自分を守るための防衛本能だ。自分の心をごまかす方法をとって何が悪い。自分が傷つきたくないからという理由が大義名分になるかならないかは問題じゃない。これは立派なロサンゼルスの法則だ。
 本能さえもコントロールしようとするのだ。ロサンゼルスの人間は。

 *  *  *

 携帯電話が鳴る。
 ボブだろう。今はそんな気分じゃない。あとでどういう目に遭わされるのかを想像することすらも煩わしいというのに、携帯電話は鳴り止む気配を見せることなく喚き続けている。鳴り止まない電話に苛立って投げつけようとさえもしない自分自身に苛立つこともないのだから、泣けてくる。尤も泣くこともないのだが。
 根負けしてしまったジョーは、相手を確かめることなく通話ボタンを押す。

「あー ウチや。ちょほいと頼まれてくれへんか?」
「アオ……イ?」
 久しぶりに耳にした彼女の声は、当たり前ながら彼女の声だった。
「パーティー行かなアカンねん」
 僅かに覗く感情。
 困り声、はにかんだ上目遣い、潤んだ黒い瞳。たった一言だけで妄想が膨らみ、連鎖的な爆発を繰り返す。
 彼女が何を求めているのかハッキリしないが、一先ず置いておく。
 “Be Cool”
 何度も自分に言い聞かせる。
 耳にタコができるほど自分に言い聞かせた“Be Cool”で締めくくる説教。クールになれと己を奮い立たせる二律背反になど気を回している余裕はない。

 彼女が自分を頼っているというアドバンテージを如何にして強固で堅固な物に昇華させるか。その行程をどれだけクールに実行できるか。それが彼女に通用するかなんて知るわけがない。通用しなければお手上げ。ケツまくって即退散。尤もそんな簡単に諦めがつくのなら、ビバリーヒルズの住人でもないジョーが眠れない夜を指折り数えたりしない。

「オレにだって都合があるんだぜ?」
 クールになろうとすれば、相手の弱みに付け込もうとしている自分を情けないと思う気持ちが強くなる。媚びてる? 良く思われたい? 馬鹿げてる。
「……いてるんか?」
「あぁ、ごめん。なんだって?」
「せやから、こないだのことチャラにしたったるから」
 借りなんかつくったか? 思考を巡らすも、こんなときに限ってリチウムがその効果を発揮させる。効果は抜群だ。
「ほんなら、UCLAで待っとるさかい」
 着いたら電話してや。という最後の言葉は、何の余韻も残さないまま無慈悲に途切れた。

 *  *  *

 カリフォルニアの日差しは、肌に優しくない。
 葵はミリタリーパンツにタンクトップという姿で、木陰のベンチに座っていた。右手で弄んでいるサーティワン・アイスクリームのコーンは、一口分の大きさも残されていない。
 ジョーが現れたのは、その最後の欠片を口に投げ入れた瞬間だった。
「なんや、そんな格好でパーティに行くつもりなんかい」
 葵は開口一番にダメダシを行う。
「お互いさまじゃないか」
 ジョーはそう思った言葉を一度飲み込み、あぁそうかと思い直して口にする。
「ありえへんわ」
 いきなり呼びつけておいて云々。そんな感情が湧いてこない理由をごまかすために、リチウムが抜群に効いているのだと思うことにしたジョーは、あはは、と笑う。それが気に入らなかったのか、ジョーを見上げる眉にほんの少しの歪みが生まれた。
「チャラにしてくれる借りって?」
 淫らな妄想に火が点きそうになるのを堪えるために、ジョーは目と話題を逸らすしかなかった。
「借り? あぁ、真昼間に話してたこと、忘れたる」
 足を怪我して入院していたボブと電話で交わした会話のことだ。
「忘れない。僕は葵のことを忘れない」
 ジョーにはそのセリフをクールに決められる自信はない。だから、ジョーの口から出ることもなければ、葵の耳に届くこともない。
「ほな、行こか」
「どこに?」
「パーティや」
「何の?」
 葵はふぅとため息をつく。
「道中で話したる。えぇから黙って一緒にきぃや」
 早足で歩き出した葵はみるみる小さくなってゆく。
 ジョーが期待していたアドバンテージは、カリフォルニアの太陽がとっくに溶かしてしまっていたらしい。
 はたと立ち止まった葵が、早く来いと大声を張り上げる。
「急かすなよBaby」
 ジョーは葵に聞こえないように言うのが精一杯。