風待ち
留学を終えた後もぼくは帰郷せず、師匠の元へ戻った。
一年は長いなと感じたのは、芳弘さんの和菓子の細工が凄く素晴らしくなっていたのを見たからだ。新しい技法(こと)を学んだらこつこつと実践していくことの大切さは、何に関しても云えるのだろう。
幾冊にもなったレシピ帳に書きこんだ文字は 自分の手で再現してこそ価値になる。
ぼくのレシピ帳の再現を芳弘さんとする代わりに ぼくは和菓子の細工を芳弘さんに指導してもらった。
ときどき師匠が横を通りながらひとつ味見をしていく。
「ふーん…」
不機嫌ではない様子だが、良い顔も見せてはくれない。芳弘さんは「あんな顔してるけど、結構いけるなって思ったな」と親子ならでは 心の様子を読んでいるようだった。ぼくもこんなふうに親父ともできるだろうか? それからは、手土産に持ち帰るぼくの和菓子を食べる親父を見てみようと思うのだけど、なかなかその機会はなく過ぎてきている。
ぼくがひとりで作業場を片付けていると、師匠がはいってきた。
台に置いてあったトレイの布巾を捲り、ひとつ手に取って眺めていた。ぼくの心拍が上がる。作業中の緊張感とは違う…… はるかに激しいものだ。
台を拭いていた布をこれでもかというほど握りしめて立ち竦んでいた。
師匠の手が それを口に運んだ。
ひと噛み…… 顎が止まる。また噛む。また止まる。
口にもうひと噛み入れた。
噛む。顎が止まる……。
口の中の和菓子がどうなっているのかわかるほど そのゆったりと動く師匠の口から目が離せない。首の皺の流れに突起した喉仏が上下に動いた。
「誠一(せいいち)」
「はい」
しっかりと呼ばれた自分の名前に上擦りそうな声を抑えて返事をした。
「此処へ来て良かったか?」
ぼくは、その質問に何と答えていいか? 声が出なかった。
気持ちは充分なほどありがたく「良かったです」と答えを溜めているのに声に出ない。
それを言ってしまったら 此処から出されることが何となくわかったからだ。
「まあいい。仕事ぶりを見れば答えなどなくていい。ただね。いつまでも大事な後継者をわたしのところに引き留めていては親父さんに申し訳ないからね」
ぼくの奥歯がぎしっと鳴った。指先が白っぽく見えるほど台拭き布を握りしめた。
「そろそろ帰すか。うちの芳弘もいい相棒とライバルがいて良かったと感謝しているよ」
ぼくは、頭を下げた。深々と下げてあげられなかった。
そして床に丸い染みを二、三個落としていた。