銀之助随筆集
手記 歩調 二〇一六年六月十七日
周りの人の言うところによると、私はどうやら早く歩くらしい。それも、大股で一歩を前に蹴り出すように、どしどしと歩いているようである。
一つ断っておくが、私はのんびり屋である。日々、あれこれの用事に追われている訳でもなく、況してや何かに遅刻している時でさえ、私はいつものゆっくりとした歩調を変えるつもりは毛頭ないのである。
だが、友人と並んで歩いてみると、彼等は必死になって私の足についてきているのである。人によっては競争馬のように鼻息を荒げている。それに気付いて、私は少しばかり歩調を緩めるのであるが、私はどうも小股で歩くのが嫌いだから、大股の歩幅に妙な片意地を張っているのだ。その為、前に蹴り出した足が、着地するまでに長い間、宙に浮かんでいるのである。足が手持無沙汰の様子であるから、周囲の人々には、きっとヘンテコな歩き方に映っていることだろう。
両足が地についている時間より、片足が浮いている時間の方が長いこの歩き方は、まさに軍人の行進のようである。
今日も私は、この大股歩きで東京の街に繰り出す。何に急いでいるのかわからないが、この街の人々は、前を歩く人々を縫うように追い越し、急ぎ足で歩いている。しかし、彼らは小股だから、私の大股の歩きには到底敵わないのである。私の脚が特別長いわけではない。彼等の脚が短い等と侮蔑する気もない。ただ、彼等は小股で歩くのであって、急いでいない私と同じ速さなのである。私はこの大股歩きを、世の多忙な人々に推奨したい。爪先一杯まで、地面を蹴り上げることが、この大股歩きの極意である。
とはいえ、友人と並んで歩くときは、この歩き方を変えなければならないだろう。友人なら、件の軍人行進を行えば済むことではあるが、並んで歩く相手が意中の女性であったりすると、私は小股で歩かざるを得なくなる。これは非常に耐え難い断念である。
下らない葛藤かもしれないが、私はこんなことに誠心誠意向き合い、悩み続けているのである。以前、ひょんなことから、友人の犬を連れて散歩することがあったが、その犬は、ゴールデンレトリバーのとても賢い犬で、私の散歩に合わせて歩いてくれているようであった。これでは、どちらが散歩させられているのか判然としない。だが私は気ままに、大股で街を闊歩した。それは、とても気持ちの良いものであった。
もしこの犬が、私の彼女であったとするならば、それは生涯の伴侶として、誠に相応しい女性であろう。生憎、相手は犬であるし、雄であるが、この犬は、私の歩調を受け入れられる、寛容な犬であった。
今日も私は、この大股歩きで東京の街に繰り出す。そして、友人の犬を思い出しながら、のんびり歩く老人を追い抜き、横一列に並んで道を封じる女子高生に悶絶している。だが、私はこの大股を変えるつもりはない。未来が私の足を壊すその日まで、私は歩調を緩めることもないであろう。しかし、意中の女性と並んで歩くことがあるならば、私は即座に、この下らない自尊心を捨ててしまおう。