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カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅳ

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(第五章)二杯のシンガポール・スリング(6)-灰色の家



 美紗の父親は、美紗が二十歳の誕生日を迎えた頃、四半世紀ほども勤めた商社を会社都合で解雇された。娘が大人へのステージを上り始めたのと同時期にこれまでの人生を否定された父親は、人が変わったように怠惰になり、職探しをすることもなく、突然与えらえた無限の時間を無意味に過ごすようになった。
 退職金を投じて家のローンは完済したものの、美紗が私立大学を卒業するまでには、まだ二年以上あった。美紗は、中学生の頃から夢見ていた海外留学をあきらめ、大学を中退して就職する決心をした。短期間に老け込んだ父親は、彼女の決意に謝意を示すこともなく、「無理して大学まで出してやっても、どうせ女はたいして稼ぎもしないうちに家に入ってしまうんだから」と、吐き捨てるように言った。
 一方、大学で父親と出会い、卒業後結婚するまでの八年余の間を出版業界で過ごした母親は、全く別の意見を持っていた。美紗には、奨学金を申請して何としても大学を卒業するよう強く勧め、自身はパートの仕事を始める傍ら、出版社を寿退社してからも人脈を生かして細々と続けてきたフリーライターの仕事に精を出した。

 幸い美紗は、一定の成績を修めることを条件に、返済義務のない給付型奨学金を受けられることになった。それでも少し足りない分は、学生仲間のツテを頼りにアルバイトに励むことで、どうにか自力で工面した。美紗の母親は、タイミングよく編集プロダクションを立ち上げた現役時代の同期に誘われる形で、徐々にライターとしての仕事を増やしていった。
 経済的な将来がわずかに明るくなったことを、父親は喜ばなかった。社会に置きざりにされた者にとって、妻と娘が未来を切り開こうとする姿は、無言の圧力であり、己の惨めさを再認識させるものであり、ついには妬みの対象になった。エリート意識だけが残る男は、忙しく働く妻が家事をおろそかにしていると文句を並べるぐらいしか、やることがなかった。

 入学当初から寮住まいだった美紗は、大学から電車で二時間ほどの所にある実家に、月に数回ほど顔を見せた。しかし、父親の失職後は、いつ帰っても、両親は口論してばかりだった。
 家にいるだけで何もしない父親と、ライターの仕事にかかりきりの母。
 美紗の目には、自分が勉学を続けることで、両親の関係がますます悪化していくように見えた。特に、学業資金を少しでも援助しようと奮闘する母親には、心苦しさを感じた。無事に卒業して就職し、早く母を安心させたい。その思いが、留学をあきらめた自分を奮い立たせる原動力となった。

 母親は、しかし、美紗の想像とは少し違う方向を向いていた。