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<未完成>

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 有線放送を入れる時セールスマンに勧められて契約した、あまり使われることのない無線LANのパスワードを伝えると、青年は慣れた手付きでそれを打ち込み、道久の正面に画面を向けた。兄は弟子の青年を紹介しに来たわけではなく、単にインターネットの出来る場所に来たかっただけなのだ。そのことが二人の一連の動きを見ていて分かった。
 大事なことは――、何も教えてくれない。
 兄は昔からそうだった。いつだって、私は除け者なのだ――。
 コースターを敷いてグラスを置く。青年はそれに気付きもしないほど集中した表情で、斜めから画面を見ている。
〈ここです〉
 青年の〈声〉がして、道久が半眼の目を少しだけ開いた。しのぶのいるカウンターから、パソコンの画面は見えない。
 しのぶはその時なぜか、同じ川崎市内の公団住宅で暮らす母のことを思い出していた。その部屋の小さな仏壇には、父の若い遺影があり、その顔は少しだけ自分に似ている。父方の親戚とは昔から疎遠で、母方の祖父母は、それぞれが写真になって父の横に並んでいる。子供を産まないまま四十を過ぎてしまった自分には、もう写真を飾ってくれる人がいないかも知れない。五十を過ぎて独身の兄にも、もう無理だろう。子孫を残せなかった兄妹を、遺影になった人達は、どう思うだろうか。ご先祖様に、申し訳がない――。
「しのぶ、聞こえたか」
 顔を上げると、道久が真っ直ぐに自分を見ている。
〈日向、もう一回見せろ〉
〈押忍〉
 青年が画面をしのぶに向け、音のない動画が動き出した。何も聞こえない。そう答えようとした時、画面の中の少女が、〈声〉を出した。
 幾分不鮮明に感じるけれど、十分に意味が伝わって来た。それは耳では聞こえない音で、〈意味を持った強い雰囲気〉のようなものだ。彼女はなぜか――、心の口で――、彼女の祖母に謝っている。
「ママ、何見てんの」
 トイレに行っても手を洗う習慣のない公務員がチャックを上げながら近付いて来て、無遠慮にパソコンの画面を覗き込んだ。
「あれ、これってあの子じゃない? やわらかつんつんの子。面白いよねー、あのCM」
 公務員はポケットから携帯電話を出し、歳の割には慣れた動作で人差し指を動かした。この店のWi−Fiを使っているのは、公務員だけだ。
「いろんな人が真似して、世界中で流行ってるんですよ。わたしはこう見えて、ネットの流行に詳しいんですよ」
 見た目に反してパソコンやスマートフォンの操作が得意な公務員が、画面の中の再生ボタンをタップして三人に動画を見せた。

 歯ブラシの先端を巨大化した世界を背景にして、少女が立っている。
 やわらかつんつんやわらかつん
 白い衣裳を着た彼女はアカペラで歌っていて、くねくねと踊っている。「つんつん」の歌詞に合わせて両手の人差し指を突き出すと、少女の両脇で虫歯菌と食べかすに扮して踊っている悪役達が悶絶して跳び上がる。
 やわらかつんつん
 彼女は両手を頭の上で合わせ、自身が歯ブラシの毛先になったように踊り、
 やわらかつん
 また人差し指で悪役を転げ回らせる。

「押忍。ちょっとだけいいですか」
 歌が終わり、映像が商品のカットに変わると、青年が手を伸ばして動画を先頭に戻した。音量をゼロにして、もう一度最初から流す。
 やわらかつんつん 
〈なんだ、こいつ――〉
 やわらかつん
〈この女、――心の口で歌ってるぞ〉
 やわらかつんつん 
 珍しく、道久が表情を変えている。
 やわらかつん
〈――押忍〉
 青年が同意して、頷く。
 メロディーが、しのぶの頭の中で跳ねていた。その体験は刺激的で、快感ですらあった。音の妖精が、その尖った頭を使って心地良く脳を刺した。彼女は間違いなく、心の口で歌っていた。
「おい、しのぶ」
 道久が本物の口で呼び、「携帯を貸せ」と言った。
 電話を掛けようとしているのではないということは、すぐに分かった。受け取ったスマートフォンを青年に渡しながら、無言で指示する〈声〉が聞こえているからだ。
 青年は同意して、持ち主の断りもなしにカメラアプリを起動させると、何の躊躇いもなくそれを構えた。
「同じことをやってみろ」
 しのぶは目を伏せて下唇を噛み、ささやかな抵抗を示した。
 また――、滲み出している。
 未成年の若者までが、好奇の目で見ている。親子ほど年の離れた初対面の女に、無遠慮にカメラを向けている。いつだってそうだ。犬にも真っ先に吠えられる。
「押忍。録画します」
 いつの間にか三コウが全員集まって来て、グラス片手にしのぶを囲んでいる。
「早くやれ」
 しのぶは、さっき頭の中で跳ねた音の形を思い出しながら彼女を真似て歌った。

 やわらかつんつんやわらかつん
 やわらかつんつんやわらかつん

 三コウから気のない拍手が起こり、しのぶは羞恥に火照る顔を両手で覆った。指の隙間から見える六つの目が、しのぶをじっと観察している。
 青年はすぐに動画を無音にして再生し、道久はその画面を覗き込んでいる。
 しのぶは意識を集中し、自分の〈声〉を聞き取ろうとした。
〈押忍――。せっかくやってもらったのに、駄目ですね〉
 青年はそう心の口で言って首を振り、電話を返した。役に立たない女だと責められたような気になって、しのぶは目を逸らしたまま、それを受け取った。
〈とにかく――、こいつ、凄いぞ〉
 道久が唸りながら息を吐き、ぐびりと水割りを飲んだ。
 青年はまた心の口で押忍と応えて、同じようにウーロン茶を飲んだ。
 しのぶは蛇口から落ちた水滴が、シンクに弾けるのを見ていた。心の口で話す青年と、心の口で歌うアイドル――。その出現が自分の生活に与える影響について考えていた。
「ママ、カラオケ入れて」
 いつの間にかボックス席に戻った銀行が、手を振っている。先公と公務員も定位置に戻って、それぞれのグラスを傾けている。
「今行きます」
 しのぶはカウンターを出て、三コウの席に向かった。
 考えたって意味がない。自分に出来る仕事はもう他にない。どんな職場に勤めても決まって陰湿ないじめに遭い、耐えているうちにクビになった。この店がなければ、生活が出来ない。私はもう、どこにも行けない。
〈銀行がカラオケを歌ってる間に帰る〉
 背後から、兄の〈声〉がして、しのぶは心で頷く。
〈そんなでかいパソコン持って来なくても、携帯だけ持ってくりゃ良かったんじゃねえのか〉
〈押忍。すいません〉
 二人の〈会話〉を盗み聞きしながら、しのぶはリモコンを操作し、マイクのスイッチを入れた。この曲はイントロが短い。早くマイクを渡さなければ、すぐに歌が始まってしまう。
 十分なタイミングでマイクを受け取った銀行が、うっとりした顔で井上陽水の「青春時代」を歌い出すと、脱いだ下駄を手に持った青年が忍び足で席を立ち、二人は店から消えた。
 銀行の歌が間奏に入るころには、スナック「しのぶ」はいつもの状態に戻っていた。
 しのぶはこの生活が変わることを望まなかった。
 ただなぜか、今夜はいつもより少しだけ酔いたいような、そんな小さな高揚感があることに気付いている。この店だけを取り残して、外の世界が表情を変えつつある。そんな予感に胸が疼いていた。



作品名:<未完成> 作家名:新宿鮭