小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

<未完成>

INDEX|8ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 溶けた氷水をシンクに流した時、しのぶは不意に殺気を感じた。
 ――兄だ。
 兄は今、店の外で、サンダとすれ違った。
 もう一つ――。
 二つになった殺気は同時にゆっくりと消えながら、スナック「しのぶ」に近付いて来る。




「うるせえ」
 生まれてから四年過ぎてもまだ言葉を話さない娘を睨み付けて、息子が怒鳴っている。
 息子は娘とちょうど十歳違いの十四歳で体格が良く、母親の目から見ても完全に不良少年だ。
 いったい、誰に似たのだろうか――。
 夫は息子と真逆の華奢な男で、売れないイラストレーターだったが、暗い絵ばかり描いて注文がほとんど来なくなった二年前、急に作家に転身すると言い出し、丸一年仕事もしないで書き上げた長編小説を脱稿した夜、首を吊って自殺した。
 夫の机には、綺麗に積み上げられた小説原稿があり、その上に置かれた遺書には、この小説を売って生活しろと書かれていた。
 それはSF小説だったそうだ――。
 夫の仕事相手だった雑誌出版社の男に原稿を読んでもらうと、面白いけれどプロのレベルには達していないと言われた。それを聞いて落胆はしたが、元々売れるような物だとも思っていなかった。
「うるせえよ」
 パートの仕事は何年も前からしているし、生活保護を貰ってもぎりぎりの生活がずっと続いている。夫は無収入だったから、その死で生活が激変することはなかった。もう何年も前から、どん底だったのだ。
「うるせえっつってんだろ」
 息子は空手の素質があるらしく、もう二年も月謝を納めていない道場に、毎日平然と通っている。一年中、誰かに貰って来た鉄の下駄を履いていて、不良同士で喧嘩ばかりしている。
 息子に対して強い愛情を持っているのは確かなのに、それをどう与えたらいいのか、まるで分からない。空手の月謝も払ってあげられない親に――。こんな底辺の生活をさせてしまっている親に――。子供を叱る資格はあるのだろうか――。後ろめたさが邪魔をして、息子と正面から向き合うことが出来ない。
 娘は、感情を表に出さない。たまに笑ってくれても、すぐに恥ずかしそうに目を逸らせてしまう。あまり泣かず、四歳にもなるのにまだ一言も喋らない。それは家の中が荒んでいて、会話がないからだと思う。息子の時は、こんなに遅くなかった。娘が喋らないのは、この家が暗いからだと思う。娘を医者に連れていくべきだろうか――。もし娘に何か障害があるとしたら、家計はどうなってしまうのだろう――。そう思うと、内臓が重くなる。どん底の下に、まだ、つま先が着かない。
 娘は困ったような顔をして、息子を見ている。
 息子は床を踏み付け、娘を威嚇する。
「だから言いたいことがあるんなら口で言えよ!」
 息子の行動は、どう見ても異常だ。頭では分かっているのに、何も言えない。以前は娘の面倒を良く見てくれる優しい子だった。娘は親よりも息子に懐き、息子は親よりも早く、娘の空腹やおむつの交換に気付いた。そんなことがこの状況を放置する理由にならないことは分かっている。分かっているのに何もせず、ただ道久の機嫌が落ち着くのを待っている。道久はしのぶの顎を掴み、その潤んだ瞳を睨み付けている。
「わかったか。わかったんならちゃんと口で返事しろ」
 その時、娘が初めて喋った。
 しのぶが最初に話した言葉は、「はい」だった。




「ずいぶん速いうんこだね」
 氷を持ってボックス席に戻ったしのぶに先公がそう言ったのと同時に、店のドアが開いた。
「あれっ、マスター」
 先公は慌てて愛想笑いを浮かべ、手に持っていた水割りをちびりと飲んだ。
 三コウは、揃って悪さを見咎められた子供のような顔になり、喫茶店で話すようなありふれた会話をし始めた。
 この店の平和は、マスターであり、しのぶの実兄である島田道久の力によって保たれている。やくざは追い返され、店での暴力は決して許されない。愛想はないが、皿も洗うし氷も割る。ただ、現れるのは一日に数時間で、店に問題がないことを確認すると、その時間までの売り上げを確認してどこかに消える。
 道久は三コウに向かってぶっきらぼうに頭を下げると、カウンターの席に座り、隣のスツールを顎で示した。大きな足音を立てて道久の後ろを付いて来た黒い空手着の青年が、カウンターにノートパソコンを置いて「押忍、失礼します」と言った後、その席に腰掛けた。
「初めまして、よね?」
 しのぶはカウンターの中に入り、青年の前に立った。
「妹の島田しのぶです」
 青年はくるりとしのぶの方を向いて腰を上げると、もう一度「押忍」と言い、「日向タケシです」と名乗った。
〈ぜんぜん似てないな〉
 ――息が止まりそうになった。
 彼は同時に、心の口で呟いていた。
 しのぶは激しく動揺した。自分と兄以外に、心の口で話す人間と対峙するのは初めてだったからだ。
〈この子――〉
 しのぶの反応に、今度は青年の方が驚いて目を見開いている。
「隠し子じゃねえ。弟子だ」
 しのぶの心を読んだ道久は、ちらりと三コウの方を見て、彼らには聞こえない〈声〉で話を続けた。
〈こいつは、心の口で話す。俺たち兄妹といっしょだ。伝えようと思って考えれば、しゃべるより速くそのまま伝わる。お前といっしょで、こいつは思ってることを頭の中でべらべら喋る癖があるから、いつも考えてることがダダ漏れだけどな〉
 青年は申し訳なさそうな顔をして「押忍」と呟き、首を縮めた。
〈これが出来るのは、俺たち三人だけじゃない。俺らみたいな人間は世の中に幾らかの割合で存在する。お前も今までにそう感じたことがあるだろう〉
 しのぶは頷き、道久の〈声〉の続きを待った。――確かに、人混みの中にいると幻聴のようなものを感じることがある。小学生の頃、初詣に行った寺で聞こえた、誰かのお祈りの〈声〉を思い出した。若くて可愛い奥さんをもらって会社でも出世して親も惚けずに長生きして宝くじに当たって……、願い事は延々と続いて、神様お願いします、と結ばれた後、喧騒に紛れて消えた。自分の詣る番が来ても、しのぶは願い事をしなかった。寧ろその方が、神様に好かれると思ったからだ。
「水割りと、こいつにウーロン茶をくれ」
 道久はそう言って、顎で青年を指した。青年は遠慮した表情になってまた「押忍」と言い、持参したパソコンのモニターを開いた。道久はそれ以上の説明をする気がないらしく、弟子の作業が落ち着くのを何も言わずに待っている。
 確かに、隠し子にしては顔が違い過ぎる――。しのぶはグラスに氷を落としながら、ディスプレイに照らされる青年の顔を盗み見た。青年はこっそりと店内を観察している。好奇心に溢れた若い瞳が、店の全景を把握しようと広角に動く。――未成年、なのかも知れない。
〈高校生だ。用が終わったらすぐに帰る〉
 しのぶは頷き、冷蔵庫から二リットルボトルのウーロン茶を出した。
「日向。どうだ」
「押忍。すいません」
 ほとんど押忍としか話さない青年が、しのぶの方を見て言った。
「Wi−Fiのパスワードを教えてもらっていいですか」
作品名:<未完成> 作家名:新宿鮭