<未完成>
しのぶは内股になり、カウンターの中で後ずさりをした。タイトスカートの臀部に酒瓶が触れ、その冷ややかな感触に息を呑む。
スナック「しのぶ」では、このような事態が頻繁に起こる。あまりにも頻繁なので、ボックス席に座っている三人組の常連客も、ただじっと成り行きを見ている。
「そんなラーメンは、お出ししていません」
しのぶはそう言って、男から目を逸らした。
「そんなら糞汁(くそしる)でええわ。糞汁持って来い」
「おいてません」
また――、滲み出ている。
しのぶは目眩を感じ、カウンターの中にあるシンクの縁を掴んだ。
また――、出ている。それは匂いみたいに体から滲み出して、自分の意志ではどうすることも出来ない。
体全体から、〈いじめてください〉が滲み出しているのだ。
――私は何も悪くない。この男がふらりと店に入って来てカウンターの壁際の席に腰掛けてから十五分ほどの間に、粗相など何一つしていない。愛想良く飲み物の注文を聞いてセットの水割りを作り、咥えた煙草に火を点けて灰皿を出し、手間をかけて作った自慢のお通しを出す時に、簡単な物なら作れますからお腹が減っていたら言ってくださいね、と微笑んだだけだ。ただそれだけなのに――。
「なんや糞汁も作られへんのか。簡単やろうが」
しのぶはシンクの底に歪んで映る自分の顔を見た。
スライムを見ると本能的に握り潰したり引き千切ったりしたくなるように。気泡緩衝材のバブルを見るとどうしてもプチプチと押し潰したくなるように。人を嗜虐的にさせる何かが、この顔に張り付いているのではないか。
「ほんなら何があんねん」
「み……、味噌ラーメンなら作れます。サッポロ一番で、一杯千円ですけど」
しのぶは顔を上げ、潤んだ目で男を見た。
有線放送から流れていた石川さゆりの艶のある声が、ゆっくりと小さくなって、ストリングスの中に溶けた。
「塩ラーメンもあります……。あと、焼きそばと焼うどんもあります。焼きそばと焼うどんはサッポロ一番じゃなくて生っぽい麺です。軽い物ならミックスナッツとかお新香とかキスチョコとか……、スナックにあるようなものなら大体あります」
男は何も答えず、煙草の煙だけを吐き出した。
「良かったらカラオケもどうぞ。歌いたくなったらいつでも……」
しのぶは煙の糸に絡み付かれる自分を想像していた。雁字搦めにされた体は放置され、黒い蜘蛛になった男が、カウンターの向こうから嬲るような目で見ている。陽気にカラオケを歌い出すようなムードは、ひとかけらもない。
答えの代わりに、男が口から紫煙の糸を吐く。
しのぶは極端な内股になり、無意識に下唇を噛んだ。
私のどこがいけないのだろうか。この店のいったい何が悪いのだろうか。
しのぶは叱られた子供のように、ちらちらと男の目を見て、その答えを探そうとしている。
「若い女の子がいなくてごめんなさいね」
男は視線をしのぶに据えたまま短くなった煙草を消し、グラスに残った水割りを飲み干した。
「うちは見ての通り、私ひとりでやっている小さい店ですから。あ、お名前は……」
しのぶはグラスの中身を足そうとして両手を伸ばし、はっとなって息を止めた。
男に手首を掴まれていた。
その手はじっとりとした汗で湿っていた。
「もういらん」
男はもう片方の手でカウンターに一万円札を置き、「サンダや。また来る」と言って席を立った。
「ちょっと待ってください、いま計算してお釣り……」
背の高い痩せた体が、影のように移動して、細く押し開けた扉の隙間からするりと消えた。
しのぶの手首には、生々しい感触が残っていた。
サンダ。
漢字ではどう書くのだろうか――。
彼は予告通りまた来るだろう。金払いのいい客として。
四十を過ぎた女の直感が、そう告げていた。
あの男はきっと、またこの店に来て、あの冷たい目で私をいじめるだろう。
「なんだろ、新参者のヤクザかな。うちのおしぼり入れろってやつ。マスターがいる時じゃなくてよかったね、ママ」
常連客の一人、近所にある信用金庫の支店長が、言葉とは真逆のにやけ顔で残念そうに言って、美味そうに水割りを飲んだ。
「そうねえ」
しのぶは落ち着きを取り戻し、ボックス席の常連客の間に腰を下ろした。
女性従業員が一人だけのこの店の常連客は、当然全員がしのぶ目当てだ。洋装が似合うスラリとした体に、不幸せそうな色白の顔。黒目がちな瞳は常時うっすらと濡れていて、ちらりちらりとしか人の目を見ない。
弱そうなファイティングポーズを取りながら、別の客が嬉しそうに言った。
「ついさっきまでいたのにね。危なくまた暴力シーン見ちゃうとこだったね」
市役所に勤めるこの客は定年間近で、七三分けのかつらを被っている。
「でも実はママ、酷いこと言われながら実は感じちゃってたんじゃないの? けっこういい男だったしね」
「やだ。やめてくださいよ」
一般的には、しのぶのように気弱な女は、水商売の経営に向かないと言われている。従順そうで、何をやっても許されそうな独特の雰囲気は、スナックのママによくいる男勝りの豪傑タイプとは真逆だ。しのぶの右腕になるような、やり手のチーママもいない。バイトを雇ってもなかなか定着せず、最後に辞めた三十代のシングルマザーが子供を連れて田舎に帰ってから、もう二年以上が経つ。
「ママの糞ラーメンだったら、二万円払うよ」
公立中学校の教頭をやっている客が、メタルフレームの眼鏡を拭きながらそう言って、他の二人から安すぎると非難された。
しのぶ一人のスナックが、何とかやっていけているのは、ほとんど毎日やって来る、この三人からの売り上げに拠るところが大きい。水商売で、タチが悪い客が多いと言われる三職種、銀行・先公(センコー)・公務員の「三コウ」が、この店ではいつもボックス席を陣取って、お互いを牽制しながらしのぶをいじめているのだ。
「僕だったら百万払ってもいいですよ。その代わり、作るところを見させてもらいますよ。最初から。材料の糞を用意するところからです」
金の話の時だけ丁寧語になる「銀行」が、しのぶを舐めるように見ながら言った。
「そりゃそうだ。作るところが見られないんじゃ価値がないからね。わたしたちゃ食べたいってタイプじゃないから。っていうか寧ろ食べさせたいね、ママに。食べさせるとこまで行けるんなら百五十万出しますよ」
普段は教育者然として、思ったことの半分も口に出さない白髪頭の「先公」は、この店にいるときだけ、下品で饒舌になる。
「そこで百五十万ってとこが先生らしいね。実現性低いんだからもっと高く言えばいいのに、なんか現実的なんだよな。そもそもママが金のために糞ラーメン作って食っちゃうような女だったら、こんなに毎日通ってないでしょうよ」
必ず最後に話をまとめようとする「公務員」が、七対三に分けられたカツラの七割の方を、その形に沿って撫でながら言った。
「もう。そんなこと言われたらトイレに行けなくなっちゃうじゃないですか……」
しのぶは口を隠して笑い、立ち上がった。空になったアイスペールを持って、カウンターに向かう。三コウの視線が、重なった三灯のサーチライトのように、しのぶの尻を追いかける。