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<未完成>

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 島田が世界大会を初制覇した年と同年に、人類最強決定戦と銘打って開催された立ち技のヘビー級トーナメントは、KO決着による名勝負が頻発して新しい格闘技ファンを掴み、瞬く間にメジャーな興行に成長していった。キックボクシングをベースに肘打ちを禁止にした流血戦の少ないルールはテレビ向きで、東京ドームを満席に埋める巨大イベントがゴールデンタイムに生放送されるようになった。バラエティ番組で腕を磨いたテレビマン達が、派手な煽りビデオで会場と茶の間を盛り上げ、胸の谷間が強調されたドレスを纏ったグラビアアイドル達が、嘗ては一部のマニアか不良少年にしか見向きもされなかった男の勝負に花を添えた。
 島田はその世界に、強い興味を持っていた。
 他団体に所属する格下の空手家が、さも空手界を代表する選手のように脚光を浴びていることに、若き日の島田の腹わたは煮え繰り返っていた。島田の所属する空手最大流派は「最強」を謳いながらもプロ興行への参戦に門戸を閉ざし、負けることを恐れて逃げていると世間から揶揄されていた。
 島田は知己のキックボクシングジムやムエタイジムに出稽古に通い、リングに上がる準備をしていた。体格の合う稽古相手を求めてプロレスのジムにも通い、寝技や絞め技も学んだ。
 島田の野心は間もなく道場内に知れ渡り、それを快く思わなかった古参の幹部達との軋轢を生んだ。
 幹部達は、自分たちの流派こそが最強なのだと繰り返し主張した。しかしそれは、世界大会の優勝者である島田を説得する理由にはならなかった。
 島田はただ純粋に強くなりたかった。自分の強さを世の中に証明し、団体を中傷する者を黙らせたかった。世界大会を連覇すれば、自分の希望が通ると信じていた。しかしそれを達成しても、プロ参戦への門戸は固く閉ざされたままだった。
 三十歳になった島田は、もう待つことが出来なかった。幹部を通り越して最高責任者である総裁に直訴したことで、対立は決定的となった。「臆病者」と幹部達を罵倒し、団体を飛び出した島田はフリーになり、プロの格闘家として一人で生きていく道を選んだ。
 島田の挑戦は順調に進むかと思われた。知名度も人脈もあり、脱退前から水面下で具体的な試合の打診もあった。しかしそれは、実現する直前でことごとく頓挫した。島田が抜けた後、団体が一転してプロ参戦に舵を切り、島田の活動を妨害し始めたからだ。
 フルコンタクト空手世界最大流派のプロ参戦は、格闘技ファンに強いインパクトを与えた。島田の次世代を担うホープとして期待されていたブラジル人、ペドロ・グスタボがトーナメントに送り込まれ、期待通りの一撃KOで鮮烈なデビューを飾ると、ブームは更に加速していった。
 日本の格闘技界は、その後、全盛期を迎える。
 寝技・関節技・絞め技を解放した総合格闘技ルールの団体が台頭して二大イベントとして定着し、格闘技バブルは頂点に達した。日本を目指して、世界中から一流選手が集まって来た。
 島田は取り残され、忘れ去られた。
 島田が格闘技史の最後に顔を出したのは、団体を出て七年後、アメリカで行われたバーリトゥードの大会で、当時の無差別級王者に締め落とされた時だった。島田は三十七歳になっていた。

 島田とタケシは、一列になって歩く。
 坊主頭に無精髭を生やし、黒いジャージに雪駄履き、背筋を伸ばし無駄のない動きで歩く島田の真後ろに、その動きを真似たようなタケシが続く。二つの黒い影は最小人数で編成された軍隊のように、寂れた夜の街を進んでいく。島田が路上の吐瀉物を跳び越えれば、鉄下駄のタケシも跳躍する。島田が擦れ違う女の尻を見れば、タケシも釣られて振り返る。
 島田がちらりと向いた先に、建築中のマンションがある。最近になって工事が始まるまでは、長い間駐車場だったその場所をタケシもまた視界に収める。

 二人が初めて出会ったのは、島田が引退宣言をする場もないまま現役の続行を諦め、残りの人生の意味を見付けられないでいた頃。昼間から酒を飲み、ギャンブルに金を溶かしていた時期だ。
 その駐車場には、小学生のタケシがいた。タケシは夕暮れの赤い光の中で四つん這いになり、体格の良い子供に体を蹴られていた。タケシは一人。相手には他に仲間が三人。一方的な、いじめだった。
〈悔しいだろ〉
 心の中で呟いた。島田の頭の中には、無様に負けたアメリカでの試合が浮かんでいた。たった一瞬のミス、たった一度の敗北が、頭の中から何年も離れない。苦い記憶を奥歯で噛み潰しながら、弱い者に感情移入している自分を恥じた。どんな手を使おうが、正しいのは勝者だ。敗者の言うことなど、誰も聞かない。放置して立ち去ろうと足を踏み出した時、その声が聞こえた。
〈悔しい〉
 亀の状態になって顔を上げたタケシと、目が合った。
〈お前、俺の声が聞こえるのか〉
 小学生のタケシはそれに応えず、より強く島田を見た。
〈いまお前を蹴っているそいつを、どうしたい〉
〈倍にして蹴り返したい。蹴り殺したい〉
 相手の子供がタケシの視線に気付き、島田の方を見た。子供達の表情に、屈強な大人の介入を恐れた緊張が走った。
 体格の良い子供は最後に一発タケシの尻を蹴った後、少ない語彙の中からいくつかの口汚い捨て台詞を吐いて歩き去り、他の三人もタケシを罵って、後に続いた。駐車場を出ていった子供達は、島田から安全な距離まで離れた所で、誇らし気に大袈裟な笑い声を上げた。
 その間、島田とタケシは視線を合わせ続けた。
〈お前の顔には恐怖心がない。恐怖さえなければ、喧嘩の強さは主に技術と体力に左右される。お前を蹴っていた子供には、体力はあっても技術はなかった。つまり、あの子の体力に勝る技術を習得すれば、お前は奴に勝つことが出来る。更に体力もつければ、より強い相手にも勝てるようになるだろう。だが、技術にも体力にも、限界がある。より強い者が現れ、いつかお前も負ける。お前を蹴っていたあの子も、いずれ誰かにやられるだろうし、もしかすると、もう誰かに負けていて、自分より弱いお前をいじめることで、その劣等感を埋めているのかも知れない。喧嘩というのは、そういうものだ。もし、今、俺が思っていることが聞こえているなら、答えろ。それでも技術を学んで強くなりたいか〉
 引っ張られて袖の伸びたシャツで鼻血を拭って、小学生のタケシは立ちあがった。少年は固く両拳を握りしめながら、真っ直ぐに島田道久を見た。
〈聞こえてる。強くなりたい〉

 道場から徒歩三分の場所。隣のコンビニの眩しさに存在感を消されたような雑居ビルの三階に、スナック「しのぶ」はある。島田はそこに向かっていて、タケシもそれを理解している。二人は〈思考〉を共有している。




「糞(くそ)ラーメン」と、男が言った。
 男は明らかに泥酔していて、その態度はどう見ても友好的ではない。
「糞ラーメンいうてるやろ」
 血走った野卑な視線が、しのぶの顔を舐めるように這う。
「おいっ」
 しのぶは瞳を潤ませ、手の甲で唇を覆った。
「味噌ラーメンですか? うちはスナックで……」
「ク・ソ・ラーメンじゃボケッ。お前のケツの穴からひり出した糞でラーメン作って食わせろや」
作品名:<未完成> 作家名:新宿鮭