<未完成>
撤収の作業音に掻き消されて聞こえなかった振りをしながら、ミコは考えた。見所は、何だろう。一流のプロの技術で綺麗に撮ってもらった、わたしの、顔? 体? 違う。その答えは間違っている。正しい答えはきっとこうだ。――今回はスタジオ撮影のカットがなくて全部ロケだったり、照明も大掛かりですごく芸術的になっていたり、そういうところを見て欲しいです。もしもう一度同じことを聞かれたら、こう答えよう。
「最後に一言」メイキングカメラの男はあっさりと質問を変え、ミコはすぐに微笑んで答える。
「初水着、みんなに見て欲しいです! よろしくお願いします!」
メイキングカメラの男がファインダーを覗いていない方の目で、ミコの胸元を見た。ミコはそれに気付く素振りも見せず、笑顔でカメラに手を振った。
――こんな子じゃなかったのに。
少しずつ嘘が上手くなって、少しずつ狡い女になっていく気がする。
もう――戻れない。
そう思ったら、ほんの少しだけ瞳が潤んできて、東京の夜景がほんの少しだけ歪んだ。
〈お婆ちゃん……、ごめんね〉
この声は、どれくらい遠くまで聞こえるのかな。
2
川崎市の郊外にある住宅街に、鈍い音が響いている。一定の間隔で繰り返されるその音が一度だけ高い衝撃音になったのは、日向(ひゅうが)タケシの履いている鉄製の下駄が、マンホールの蓋を踏んだからだ。
新宿の格闘技用品店で半年に一足売れるかどうかと言われている片足二・五キロの鉄下駄を履き、ノートパソコンを脇に抱えたタケシは、眼球の動きだけで左右を見て、赤信号の交差点を走り抜けた。ペンキの剥げた商店街のアーチを潜り、駅に向かう真っ直ぐな道を加速していく。
自転車で巡回していた若い警官がただならぬ足音に振り返り、疑問を抱く間もなく追い抜かれる。九月二十八日、二十三時二十二分。身長百八十五センチ前後のがっしりとした青年が、黒い空手着に白い帯、鉄の下駄を履いて通過。右の脇にはノートパソコンのようなものを所持。事件性なし。警官は声に出さずに呟き、小さくなっていくタケシの背中を見ている。
走る風圧で、シャッターが揺れる。寂れた商店街を疾走しながら、タケシは今夜の出来事を振り返っていた。
ノートパソコンは主に、格闘技を研究するために使っている。
拳立て伏せと腹筋運動をそれぞれ千回やってから風呂に入り、牛乳を家庭用パックのまま一気に飲む。黒い空手着を着て自分の部屋に戻り、風呂でほぐれた筋肉を柔軟運動で伸ばした後、タケシはそれ以前の夜と同じように、ベッドに寝転んでネットサーフィンを始めた。
空手、総合格闘技、ボクシング、キックボクシング、ムエタイ、柔道、柔術、レスリング、サンボ、中国拳法、カポエイラ……、格闘技であれば、どんな種目でも構わない。タケシは貪欲に、強くなるための情報を求めていた。
一流の格闘家は、必ず何らかの閃きを与えてくれる。タケシは音量をゼロにして、彼らの体の動きに神経を集中する。どんな予兆も見逃すまいと目を凝らす。そこに隠された奥義を探す。時には、野生動物の動きを調べることもある。例えば、鰐が水辺の草食動物を襲う映像の中に、重要なヒントが隠されていると気付いたこともある。広大なインターネットの世界から何かを掴みかけた頃、格闘の余韻を頭に残したまま枕元にパソコンを伏せ、空手着のまま眠るのが、日向タケシの習慣になっている。
総合格闘技を現在の主戦場にしている東欧のキックボクサーはタケシと同じ左構えで、ノーモーションの左ハイキックを得意技としている。タケシは今夜の研究対象をその相手に決めた。スロー映像で見る彼の蹴りは、地面から足が離れて四十度ほど腰が回転するまで、ミドルキックとハイキックの区別が出来ない。
まだ高校二年生。体が柔らかいうちにこの蹴りを身に付けたい。タケシは明日から、柔軟運動にかける時間をもっと増やすことに決めた。体が柔らかければ、それだけ怪我のリスクも小さくなる。しかし、当然ながら体が柔らかいだけでこの蹴りが決められるわけではない。
まず、何度も強烈な左ミドルキックを蹴って相手の意識を脇腹に誘導し、同じ蹴りを繰り返しブロックさせることで相手の防御の癖を読む。人間の右脇腹には急所があり、左手足によるボディへの攻撃は右のそれよりも何倍も効果的だ。相手のマウスピースを吐き出させる秘孔。その一点を背足で狙う。的確にヒットすれば、それだけでダウンを奪える左ミドルを身に付けていることが、この戦略の前提にある。
しっかりと両腕でブロックしなければ腕ごと効かされてしまうような、強力な蹴りを放つ。相手のガードが徐々に下がり始める。そこに一本の線が現れる。その瞬間に足を跳ね上げる。腰を回転させながら、背足の軌道を線に合わせる。ガードするグローブの先端を掠めるような軌道でまっすぐに側頭部を蹴り抜く。
計算された巧みな駆け引きの中にこそ、この技の極意があるのだ。
眠りに落ちるぎりぎりの崖の上で、タケシはそのキックボクサーと戦っている。
左構え同士の間合いでは、左の蹴りの軌道は短くなり、相手の得意技を体感出来ない。タケシは敢えてオーソドックスにスイッチし、相手の得意とする喧嘩四つに構えた。
キックボクサーがにやりと笑う。
タケシは恐れずに踏み込む。激しい攻防の中で、いくつかのミドルを受ける。ガードした腕に痺れるような痛みが残る。
ジャブからワンツー、連続して左右のロングフックを打つ。相手はそれをスウェーで躱し、そのまま蹴りの挙動に入る。
拳一つ分、タケシは意図的にガードを下げる。相手の背足から自分のこめかみに繋がる、一本の線が生まれる。地面を離れた相手の足が、ミドルキックと同じ軌道で近付いて来る。
これは――。
〈ハイキックだ〉
ハイキックだ。
自分が判断するほんの数十分の一秒早く、島田館長の〈声〉が伝わる。
〈遅い〉
タケシは中途半端になったガードごと頭を弾かれてバランスを崩し、ガラ空きになった左の顎に、返しのフックを打ち込まれた。
大の字に倒れ、馬乗りになられる。無慈悲に打ち下ろされる拳の雨に、タケシの意識は霞んでいく。
気がつくと、敵は別の者に変わっていた。
ダウンした体の上に跨っているのは、――新人のアイドルだ。
バスローブの間から、くっきりとした胸の谷間が見える。目が合うと、女はするりとバスローブを下ろし、動き始める。上下する女の髪を追うように、ビキニの胸が揺れる。胸の谷間に沿ってゆっくりと視線を下げていく。無駄な肉のない身体は白く、正中線上に薄く彫り込まれた美しいラインが、臍に向かってまっすぐ縦に伸びている。その先がどんな状態になっているのか、タケシは目を凝らす。しかし、そこだけが――、暗闇で見えない――。
人知れず小さな唸り声をあげて、タケシは目を覚ました。
目覚まし時計の針は、十一時を指している。ベッドに入ったのが九時過ぎだったから、まだたったの二時間しか経っていない。
十一時――。館長はまだ起きているだろうか。このことは、早急に報告するべきだろうか。