<未完成>
彼は「キャスティングの渡辺です」と名乗ると、急にプロの顔になって流暢な英語を話し出し、事務所のスタッフと双子の外国人の顔合わせを仕切った。その視線は光るミコの残像を残しながら、リズミカルに出席者の間を往復した。奇妙なことに、彼の見ている世界では、ミコが最も強烈に発光していて、双子のスキンヘッドがそれに続く明るさで輝き、事務所社長の桧森がリアルな人間として存在し、吉村はサランラップに描かれた絵のような半透明になってほとんど存在が消されている。
「じゃあ、つまり今日は歌もダンスも演技も自己紹介も、なんにもやらなくていいってこと?」
桧森が話をまとめると渡辺は微笑んで頷き、「彼らはただ、彼女を見る。そう言っています」と答えた。
ミコは自分の周りの世界が、激変していく過程の中にいる。
一年前の今頃はありきたりな田舎の受験生だった自分が、気付いたら女優と呼ばれるようになっていた。
出演したテレビドラマの放送が始まって高い視聴率を得ると、撮影中のミコの出演シーンは大幅に加筆され、覚えなければならない台詞が倍以上に増えた。ドラマ撮影の合間には、ファッション雑誌やCMのような単発の撮影が入れられ、更に残った隙間で、演技や歌やモデルレッスンの個人指導が、各分野のエキスパートを招いて行われた。
舗装されたまっすぐな道を恐ろしいスピードで走っているような毎日が、幸せに浸る余裕もないままに続いている。ドラマの収録が終わった後には主演映画の撮影スケジュールが決まっていて、その映画のテーマ曲で歌手デビューするための準備もすでに始まっている。動画投稿サイトで爆発的に拡散したミコの人気を一発屋のような一過性のものとして終わらせないために、桧森社長は戦略的に出演作品を選び、レッスンへの投資を惜しまなかった。年末に事務所の稼ぎ頭であった先輩女優が予告もなく結婚してそのまま引退してしまってからは、桧森は益々ミコに付き切りになり、同じ事務所の先輩タレント達が嫉妬するほど、あからさまにミコを溺愛していた。事務所の寮と仕事場の移動には、専用の車が使われるようになり、ただ寝るためだけにあるようなミコの部屋には写真一枚飾られていない。
知名度が上がると、オーディション選考が前提になる仕事はふっつりとなくなった。これはミコにとって久し振りのオーディションであり、その重要性は桧森の思念からも伝わって来ていた。
この会場に向かう車中で、桧森の頭の中に浮かんだり消えたりしていたものは、近未来的にアレンジされた和服のような紅いドレスを着て、ゆったりと踊るミコのイメージだ。ミコは素足で、その爪にはドレスと同じ色のペディキュアが塗られている。桧森のイメージにはよく、足の指が登場する。
「で、他の娘は? うちが最後なの?」
桧森はちらりと双子を見て、渡辺に言った。
「This is not an audition」
渡辺の通訳を待たずに、双子の片方が答えた。
最高級ホテルのスイートルームに、本物の静けさが通り過ぎて行った。
ミコは桧森の頭の中を覗いていた。桧森の想像の世界に、金髪の歌姫が現れた。紅いドレスで踊っていたミコは映像になって、野外ステージに設置された巨大なスクリーンに投影されている。
ステージの中央でギターを弾きながら歌うのは、ラーだ。
撮影の休憩時間やスタジオへの移動時間に、ミコは桧森の指示で、ラーについての知識を蓄えていた。
ラーは別の時代の誰かと比較する意味がないほど、規格外のスーパースターだ。彼女の生み出す音楽はオルタナティブというカテゴリーに分類されることが多いが、それは他の誰の曲にも似ていない。原始的なリズムに、ラー自身が奏でるうねりのあるギター。聴く人の脳を撃ち抜くように響く、幻想的なハイトーンの声。辛口な音楽ライター達や、他の世界的なミュージシャン達までもが揃って崇拝する高い音楽性に加えて、ラーは完璧な美貌も兼ね備えている。ディズニー映画のプリンセスが人間界に現れ、現代ファッション界のトップチームにスタイリングされてライトアップされたような姿は、世界中の若い女性の憧れでもある。
これは、オーディションではない――。つまり、桧森の夢想は、現実になろうとしているのだ。
ラーへの敬意が、ミコの背筋を伸ばす。
ラーのツアーは主に野外で行われ、そのチケットは常に入手困難だ。会場のフェンスの外にまでチケットを持たない聴衆が溢れ、パニックを防止するための措置としてインターネットでライブ中継されるようになると、各国のサーバーがダウンし、ライブの度にニュースになった。ステージには常に最新のプロジェクション技術が使われ、視覚効果の芸術性においても比肩するものがない。たとえプロジェクションのための映像素材の一部であったとしても、ラーのライブに関わることは名誉であり、その効果は計り知れない。その重要性が、桧森の思念からも強く伝わって来る。
「では始めましょう。十分ほどで終わるそうです」
渡辺が促すと、桧森は「ただ見るだけなら五分もいらないでしょうけど」と皮肉を言って、少しだけ表情を柔らかくした。
カウチに腰掛けて、前を向く。
双子のちょうど真ん中にあるカメラの中心、その延長線上の遠くを見ながら、ミコは二人の頭の中を探った。
このカメラの中に、わたしはどんな表情を映せばいいのだろうか――。
双子の思念からは何のイメージも見えない。渡辺の見ている世界の影響か、彼らはまるで二つ並んだ電球のようだ。
電球のどちらか、あるいは両方が、では早速始めましょうと話し、ミコは頷いて言った。
「お願いします」
双子は同時に、人差し指を唇にあてた。
ミコは困惑し、目をしばたたかせた。
話してはならないルールがあるのだろうか――。そう言えば彼らは、「ただ、見る」と言っていた。だとすれば、自分はただ、見られていればいいのだろうか。
そもそも、先に話しかけてきたのは双子の方だ。彼らが「早速始めましょう」と言ったから、自分はそれに返事をしただけだ――。
双子の唇を離れたそれぞれの人差し指が、ゆっくりと下りていき、デスクの上で残りの指に組み込まれる。その間に、ミコは答えに気がついた。
〈理解出来ましたか?〉
〈はい〉
〈パーフェクト〉
ここにも、いた。
おばあちゃんだけじゃなかった――。
〈わたしたちの見立てが間違っていなければ、あなたとのコミュニケーションに、言語は必要とされない〉
ミコは他の人達に悟られないように小さく頷き、彼らを一人ずつ見た。いつの間にか、どちらがMr.HAIRで、どちらがMr.MAKEなのか、一目で分かるようになっていた。向かって左の男から現れたイメージの中で、ミコの髪が次々とスタイリングされていく。右の男は、現れるスタイリングに合わせて迷いなくメイクのイメージを重ねていき、時にはメイクをしないという選択肢を選んだ。二人の意識は繋がりあって、僅かな時間に膨大な数のイメージを完成させていく。その全てがミコにとって、初めて見る自分の姿だった。
〈素敵です。自分じゃないみたい〉
双子は同時に片方の眉を上げ、何かを見つけたような目をした。