<未完成>
渡辺は、承知しましたと応え、また温かく微笑む。
ほら見ろ、こいつもそうだ。
元々三十分しかなかった時間が更に半分になったのは、お前らの都合じゃないか。二十歳そこらのこんな小娘に、なんで上からものを言われなきゃならないんだ。どいつもこいつもタレントが売れる前は揉み手で近付いて来る癖に、売れ出すと急に横柄になりやがる。
そんなことを考えながらも、にっこりと微笑む渡辺綱一の職業は、広告や映画を専門にしたキャスティングディレクターだ。
瀬戸内の裕福な地主の家に生まれた渡辺は高学歴で留学経験もあり、それなりの企業に就職することも出来たが、在京のテレビ局と大手広告代理店の採用試験に全て失敗した後、さほど迷わずに従業員十名足らずのキャスティング会社に入った。五年の下積みを経てキャスティングディレクターになり、その十年後に独立して自分の会社を起した。
立ち上げと同時に未経験のスタッフを三人雇い、一から仕事を教えた。会社員時代、社長に言われたことを今度は自分が従業員に言う立場になった。
「この世界では、敵が出来たら終わりだ。にこにこ笑って場を和ませ、いざという時には頼りになる人。そういう人間を演じるのが、キャスティングの仕事だ」
従業員達は数年おきに入れ替わった。結婚して辞める者や、力を付けて独立していく者。斟酌するべき理由が何もないまま辞めていく者も何人かはいた。会社は生き物のように小さな収縮を繰り返しながら、まずまず安定した十年が過ぎた。
友人の紹介で知り合った五歳年下の妻と、中学二年生の長女に小学六年生の長男。郊外に建てた駐車場付きの小さな家にトイプードルが一匹。愛するそれらのものを守るために、渡辺はいつも柔らかく微笑んでいる。
「本人、もう間もなく来ますので。うちの桧森と一緒に」
吉村という若いマネージャーは、そう言って値踏みするように室内を見回した。きっと彼女が生まれて初めて足を踏み入れる、高級ホテルのスイートルームだ。事務所の社長が来る前に、室内に異常がないかを確かめている。そんな表情で、室内を見ている。
オーディション会場に仕立てたリビングの真ん中には一人掛けのカウチがあり、それと向かい合う配置で、対になった執務机が並んでいる。執務机の間には三脚が立てられ、民生機の小型ビデオカメラが、カウチの中心を狙っている。
渡辺の会社には年に三回を超えないほどの頻度で、海外作品の依頼が来る。取引のある国内の制作会社のプロデューサーが何らかの伝手で海外からの仕事を受注し、英語が話せる渡辺にキャスティングを発注して来るパターンが、そのほとんどだ。日本人のスタッフに外国人のキャストを紹介するバイリンガルの業者はあるが、彼らは日本人の芸能事務所にパイプを持たない。どこの国の仕事であろうが日本人のタレントをキャスティングする分には、国内の芸能事情に詳しい人間が有利で、英語の話せる渡辺はこのようなケースで重宝がられていた。仕事の内容は国内作品に関わる場合と同じで、必要とされるイメージや条件に合うキャストを複数選んで各所属事務所に打診し、スケジュールとギャランティーが合う者をオーディションに呼ぶ、そのワークフローに変わりはない。会話の一部が英語に変わるだけで、やることはほぼ同じだ。
「まだ渡辺さんだけですか」
吉村が自分達の遅刻を棚に上げて、幾分不服そうに渡辺を見た。
「奥にいらっしゃいます」
「本人は来てないんでしょ?」
「はい。予定通りスタッフの方だけです。先にご紹介しましょうか」
吉村の思考がイエスとノーの間で揺れている間も渡辺は微笑み、同時にこの女を気に入らない理由は何だろうかと考えた。
考えるまでもなく、答えは最初から分かっていた。
自分が〈光っていないこと〉を正しく認識していないからだ。
上司よりも先に海外スタッフと名刺交換をする、そのことが自分にとって損なのか得なのか。この女がいま考えているのは、ただそれだけだ。どうでもいいようなことに無駄に頭を使っている自分の愚かさには気付きもしないで。
扉の向こうにいるスタッフは、最貧国の子供でも名前を知っているような世界の歌姫――ラーの側近だ。ラーは次のライブステージでプロジェクションする映像に、東洋人のモデルを出演させる。その候補者を日本人の考える相場よりもかなり高額のギャラで探している。
――そして彼らは、すでにそれを見付けている。
オーディションは五つ星ホテルのスイートで行われ、そこに呼ばれたモデルはたったの一人だけ。今回、渡辺のやった仕事は単に依頼主と日本の事務所、その二社の間に入って通訳を兼ねた事務的な連絡をしただけだ。
渡辺の長いキャリアにおいても、これほど風変わりな依頼は初めてだった。会場のブッキングも室内の準備も先方の担当であり、この部屋の中にあるもので渡辺が用意したものは、カメラと三脚だけだ。念のために空のメディアと充電済のバッテリーを装着してはあるが、もともとこのオーディションを記録する予定はなく、設置してもしなくてもどちらでも構わないという返答を受けて、とりあえず置いたものに過ぎない。とはいえ、几帳面な渡辺は、その位置に注意を払った。重要なのは、カメラの置かれる場所が、対になった執務机のセンターになること。三脚の足が作るYの形が、シンメトリーに配置されること。渡辺はなぜか直感的にそう忖度し、結果として抽象化された舞台美術のようなオーディションルームが生まれた。
撮影する意思を持たないカメラが、部屋の真ん中にある。モニターもなく、他の候補者もいない。タレントのマネージャーとして注意すべきところは名刺交換の後先ではない。プロならば、この部屋を見ただけで、これが普通のオーディションではないことに、すぐに気がつかなければならない。
「どうしよう。じゃあ、先に、ご挨拶だけ」
吉村がそう口を開くのと同時に、奥の扉のドアノブが回り、彼らが現れた。
彼らは剃髪した長身の白人女性のようであり、高度な文明を持った未知の星から来た異星人のようでもある。細くしなやかな体は洗練された揃いのダークスーツに包まれ、その肌の白さを際立たせている。
二人は渡辺と吉村の存在を気にもとめぬ様子でまっすぐに執務机に向かい、音もなくそれぞれの椅子に座った。
アルビノでスキンヘッドの双子の名前は、どちらかがMr.HAIRで、もう一方がMr.MAKEだ。執務机の上で軽く組まれた、彼らの手。その爪に塗られたマニキュアの色と、二十本全ての指に嵌められたリングの配置が、二人を見分ける数少ない手掛りだ。渡辺は微笑んだ形のままの目を凝らし、その秩序を記憶しようとした。しかしそれは無駄な努力だった。
眩しくて――、見えない。
それは、二十本のリングが輝いているからではなく、当然、彼らがスキンヘッドだからでもない。
これほどのレベルの人間を部下にしているなんて、ラーとはいったいどれほどのカリスマなのか。