最後に言いたかったこと
「タナカ……タナカ」と、トオルは繰り返した。
思い出せなかった。だが、そんなことはどうでもいいと思った。それよりコウジの娘が気になって仕方なかった。ユキエをめぐる恋の争いに破れたコウジは一体誰と結婚したというのか?
「そうだ、食事にしょう。もう支度はできているだろう。ついてきたまえ。他にも二人いるが、俺の会社の社員と親戚だ」
コウジは広い食堂に案内し、他に招かれた者をトオルに紹介した。
一人はヤマシタといい、コウジの遠縁にあたる。もう一人はカワムラでヨシカワの会社の経理部門の責任者である。
食事が運ばれてきた。豪華なフランス料理だった。
コウジがみなに酒をすすめた。かなり早いペースで酒がまわった。
「娘さんはどうしたのかね?」とトオルが尋ねた。
「娘はとてもシャイで人と一緒に食事をするのが嫌なんだ」とコウジが答えた。
「そんなことじゃ、一流のピアニストになれない」と酩酊のヤマシタが言うと、コウジは睨みつけた。鋭い眼光がヤマシタを沈黙させた。
トオルは食事を終えると、自分の部屋に戻った。
窓を開けた。夕べから夜に移ろうとする微妙な色の変化が、彼の眼に映った。
四辺が山に囲まれた盆地では、山の頂き付近が微かに明るいのを残しているが、天の中央はすでに漆黒に変わっている。よく観ると色々な色が存在する。黒、青、紫、赤、ピンク、白と。真っ暗になり、星々が蒼穹に明かりを灯すまで空を飽きもせず観ていた。
少し風が出てきたので、窓を閉め、部屋に付いている浴室でシャワーを浴び、すぐにベッドに入った。夜はあまり早く寝る習慣がなかったが、酒を飲み過ぎたせいか、とにかく横になりたい衝動にかられたのである。
真夜中になって、どこからもなくピアノの音にトオルは目覚めた。気になってベッドから起き、まるであやつり人形のように音のする方へいった。二階の角の部屋の戸が開いている。部屋の中は薄暗い。中央がスポットライトでライトアップされていた。ピアノを弾いている女の後ろ姿が見えた。
近づくトオルに女は気づかずに弾き続けていた。
「いい曲だ」とトオルは呟いた。
女は振り向いた。女は軽く嬌声を発した。
トオルが、「君は昼間の……」と言うと、彼女はうなずいた。昼間、同じ列車に乗り、隣の席にいた白い帽子の美人であったのである。
「ここにお掛けになりません」
彼女は椅子を差し出すと、軽くピアノに寄り掛かった。
「ありがとう」と言って坐った。
彼女は微笑んだ。
「何かおかしいかね?」とトオルが気になって聞くと、
「ごめんなさい……顔が赤くて……」
「夕食で酒をご馳走になってね。ふだん飲み慣れていないものだから、すぐに猿のように眼のまわりが赤くなってしまう」
彼女は口に手を抑え、うなずいた。
「君がコウジの娘さんかね?」
「ええ」
「あんまり似ていないな」
彼女は紫色のワンピースを身にまとっていて、腕にはブルーゴールドのリングをしている。髪を後ろにまとめて白いヘヤーバンドで抑えている。清楚な顔立ちをしており、太い眉毛と大きな瞳が印象的な美人である。実に健康的で、とても病的なコウジの子供とは思えなかったのである。
「みんなからそう言われます。たぶん母親似でしょう」
彼女は聞かれる前に、自分からいろんなことを話した。たとえば、父が自分に過度の期待を寄せているのではないかとか、その反面、冷たい視線を感じことがあるなど。
トオルは窓が開け、そこから照明の照らされた中庭を眺めた。
「一度だけここに来たことがある。学生の頃だったかな……ちっとも変わっていない。時計の針を逆さに回して学生時代に戻ってしまったような気分になる」
「私が生まれる前の頃ですね」
「君が生まれる前……確かにそうだ。ところで君の名前は?」
彼女は会釈をして、「申し遅れました。ヨシカワ・ショウコと言います」
「ヨシカワ・ショウコか、良い名前だ。僕はイマムラ・トオル、君のお父さんの古い友人です」
「父から聞いていました。部屋に入ってきたとき、すぐにイマムラさんだと分かりました」とショウコは微笑む。
「部屋に入ってきたときから、気づいていた? 君は背中に目があるのか?」
「私、勘が鋭いんです」と言うと、ピアノから離れた。トオルがいる窓側に歩み寄り、身を少し乗り出し、その美しい瞳がきらめく夜空を捉えた。
「私は夜が好き、みんなに暗いって言われるけど、都会の夜は独りでいると堪らないほどの孤独感に襲われるけど、山の夜は荘厳で何かしら心を落ち着ける。きっと輝く星が手に取るように見えるからだわ。暗いでしょう、私って?」
「そんなことはない」
トオルはショウコの顔をあらためて見た。すると、トオルの顔が一瞬強張った。二十一年前に別れた恋人ユキエの顔を思い出したからだ。
――当時トオルは美術史を学ぶ大学生だった。ユキエもコウジも同じ大学で学んでいた。
トオルもコウジも同じようにユキエを愛していた。ユキエはどちらも好きだったが、どちらにも等距離の関係を保っていた。大学四年の夏、コウジに招かれて、トオルもユキエも一週間ほど別荘で過ごすことになった。初めての夜、トオルは意を決しユキエの部屋に忍び込み強引に関係を迫った。初めは抵抗したが、最後はトオルの愛を受け入れた。その後、二人はコウジの目を盗み愛し合った。激しい恋は二人に新しい生命を与え、そのことでユキエはコウジに結婚を迫った。
「結婚してくれなければ、子供を堕します」と涙ながら訴えた。
トオルは子供が嫌いでなかったし、またユキエも深く愛していたが、まだ若かった。何よりも学問への情熱があった。スペインに行き、ダリやピカソ…そういった画家たちを研究するのが彼の夢だった。その夢を、一人の女のために、一人の子供のために犠牲することはできなかった。その思いをうまく伝えられなかったせいで、ユキエは誤解し絶望した。自分への愛が消えたのだと思い込んだユキエに、さらに追い打ちかけるように、トオルはまずいことを言ってしまった。
「君の人生は君の自由さ。だが、君もピアニストになる夢があるんだろ。そのことを忘れてどうする? 子供なんか、いつでも作れるだろ」と。
トオルの心無いような言葉に涙で顔を濡したが、次の瞬間、力いっぱいトオルの頬を叩き、「いいわ、子供を産むわ」と言って去った。
数日後、コウジがトオルを訪ねた。
「お前はユキエさんをどうするつもりだ?」と単刀直入に聞いた。
「どうもしないさ」と答えると、
コウジは、「子供を作っておいて、結婚もしないのか。それではユキエさんがかわいそうだろう。お前とはもう絶交だ」と怒鳴り去った。その後、コウジはユキエの後を追うようにA市に戻った。しばらくして親が経営する会社に勤めた。
それから、トオルに一度だけユキエから手紙が届いた。そこには、「私がどんなに愛していたかしらないでしょう。故郷に戻ってきてからも、あなたが迎えに来てくれると信じていたのに来ませんでした。私はあなたの子供を生みました。この子には、父親が死んだと言って育てます。この手紙を最後にあなたへの思いを断ち切ります」と書いてあった。――
作品名:最後に言いたかったこと 作家名:楡井英夫