最後に言いたかったこと
遠い昔のことがまるで昨日のことのように思い出され、トオルは苦笑いをした。そんなトオルをショウコはずっと眺めていた。
ショウコの視線に気づいたトオルは同じように彼女を見た。いや、その美しい瞳を見た。まるで水晶のように輝いている。心の中まで見透かれそうで、トオルは恐怖を覚えた。
「お母さんの名前は?」とトオルは聞いた。
「ユキエ……旧姓は分からないわ。二、三歳の頃に死んだの。誰も教えてくれなかったから」
コウジはユキエと結婚したのだと思った。
「お父さんも教えてくれなかったのか?」
「お父さんはお母さんの話をすると顔を曇らせるの。だから聞いたことがないわ」
「そうか、ところで、お父さんはどんな病気だ?」
「どんな病気なのかは分からないわ、執事に言わせると、とても重い病気だって」
トオルはずっと気になっていた。「なぜ、今頃になって、コウジは自分を呼んだか」と。何が言いたいのか。ユキエのことか? それとも娘のショウコのことか。いろいろと考えているうちに気分が悪くなった。
「どうしたの? 顔色が悪そうだわ?」
「いや、眠くなっただけだ」
「そうね、夜も更けたし寝ましょう。部屋まで送りましょうか?」とショウコは窓を閉めた。
「いや、ここでいい。自分で行けるから」
翌朝の朝食のときである。
「昨日、娘がピアノを弾いていた。聞こえただろ?」と話したコウジがトオルの顔色をうかがうように見た。
「確かに聞こえたよ。ところで、手紙に書いてあった話したいことは何だ?」
「聞きたいか?」とコウジは薄笑いを浮かべた。
「そのために来た」
「何の話だったかな?」
トオルはのらりくらりとした対応に苛立ちの色を隠せなかった。
「ところで、娘のピアノの演奏を聴いて何か思い出さないか?」
「何を?」
今にも怒りを爆発しそうな気配を察したコウジは、「思い出さないならいいよ。だが、最後に言っておく。あれはお前の娘だ」とコウジが独り言のように言って立った。
驚きのあまり凍り付いたように動けないトオルを見て、
「冗談だよ。作り話だ。悪い冗談だ。忘れてくれ。何だ、その顔はまるでまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔じゃないか。実に愉快だ」と笑うと離れた。
しばらくして執事が寄ってきた。
「ご主人さまが何かおっしゃいました? 最近病気のせいか、妄想のようなものがひどくなりました」
「いえ、何も言っていない。ところで、ショウコさんは本当の血のつながった娘ですか?」
「詳しくは知りませんか、腹違いの妹の子と聞いています。不幸してよからぬ男にだまされて子供を作りましたが、ショウコ様が三歳のとき、お亡くなりになりました。それからご主人様が引き取り育てたのです」
「本当の父親は?」
「さあ、よくは知りませんが、どこからのラジオ局のアナウンサーをしていたとかいう話です」
トオルは胸をなでおろした。自分の娘でなかったことに。
朝食の後、部屋に戻ると、ショウコが訪れた。荷物を整理しているのを見て、
「もう、お帰りになるの?」
「急に予定が入って、帰ることにしたよ」
「お父様とはどんな話をしたの?」
「気になる?」
「少しだけ」
「君が生まれる前の話さ。化石のような昔だよ」
「そうなの?」
「私はてっきり私の本当のお父さんのことを話したのかと思った」
「どうして、そんなふうに思った」
「一か月前、父と執事が話をしているのをこっそり聞いてしまったの。そこで私が父の娘ではなく、別にいると言っていた。そして、死ぬ前の真実を明らかにしなければいけないと言っていた」
「聞き違いだろ? 仮に真実を明らかにしたところで何が変わる? 真実を知ったらどうする?」
「分からないわ。でも、知る権利はあると思う。私がどんなふうに生まれてきたかを知りたい」
「それを話すことができるのは、おそらくお父さんだけだ。俺には分からない」
「馬鹿げた話だけど、昨日、イマムラさんが本当のお父さんかと思ったの。父は最後にそれを明らかにしたかったのではないかと思った」
そのとき、執事は本当のことを言ったのかという疑問が起こった。腹違いの妹の子というのは嘘で、本当はユキエの子ではなかったと。だが、それも単なる憶測に過ぎない。
「過去を知るよりも、未来に向かって進んだ方が良いと思うけど」とトオルが微笑むと、
「未来、私にどんな未来があるのかしら?」
「分からない。仮の話だが、本当のお父さんが分かったら、どうする?」
ショウコは微笑んで「そうね。まずは抱きつくと思う。でも、すぐにずっと放って置かれた憎しみで恨み言を言う。いつか刺すかも。いいえ、きっと火をつけて焼き殺すかも」とショウコは微笑んだ。
トオルはショウコの瞳を見た。美しいがそれは上辺のことだと気づいた。
「ごめんなさい。変なことを言って、最近、おかしいの。失恋したせいかしら、心のバランスがうまくとれない」
「君のような美人を振る奴がいるのか?」
「美人は三日で見飽きるとよく言うでしょ。でも、勘違いしないで、私は自分を美人だと思っていませんから」
「タバコをもらえる?」とショウコが頼んだ。
「吸うのかい?」
「吸ってはいけない?」
「いいや、かまわないが」と言ってトオルはタバコを差し出した。
ショウコはタバコに火をつけた。
「火って不思議よね。一瞬のうちに何もかも燃やし尽くす。炎を見ていると、ときどきぞくぞくする。私、放火魔の気持ちが何となく分かる。私も何か嫌なことをあると火をつけて何もかも燃やしてしまいたいと気持ちになることがあるの。変?」と言うと、タバコを深く吸った。
「変だ。十分に変だ。余計なことを考えずにピアノの勉強でもした方が良い」
「お父様みたいなことを言うのね」とショウコは微笑んだ。
「もう、帰るよ」と荷物の整理がついたトオルが言った。
「また会えるかしら?」とショウコが寂しそうに言った。
トオルは応えず、一礼して部屋を出た。
コウジは具合が悪いということで見送らなかった。ショウコは二階の自分の部屋からトオルを見送った。
トオルはコウジが本当は何を伝えたかったのか分からぬまま、執事が運転する車に乗り別荘を後にした。
車の中で、トオルはショウコのことを聞いた。
「お嬢様は、ピアノを学んでいらっしゃいます。お父様が余命もわずかで、もし亡くなったら、独りぼっちになると嘆いている最中、失恋したとかで、ひどく精神が不安定になってします。お嬢様は一人の男をめぐって友人と争ったようです。男は最終的に友人を選んだとか。その友人がお嬢様よりも美人だとか、あるいはお金持ちだとかであれば良かったのですが、普通の女でした。男に理由を聞いたら、「お前に心がない」と言われたそうです。それからおかしくなりました。タバコを吸い始めたのも、お酒をたしなむようになったのも、その頃です」
「いつか忘れるだろう。そんな男のことは」
「お嬢様は何か言われましたか?」
「何も言われなかったよ」とトオルは嘘をついた。
ふとユキエがなぜ死んだのか気になった。病死なのか、自殺なのか。「自分のことを忘れる」と言ったが、本当に忘れたのか。コウジが伝えたかったのはユキエの最期ではなかったか。
「ところで、ショウコさんの母親はどうして死んだのですか?」
作品名:最後に言いたかったこと 作家名:楡井英夫