マリオネットの恋
「もう随分前から死を願っている。しかし、容易に訪れない。人と付き合うのも嫌になった。それでこの島に来た。退屈な日々ばかりが続いた。島の人間は実に愚かでどうしょうもない阿呆の集まりだった。いつも彼らを軽蔑している。突然の嵐とかそういったものが島を襲い、一瞬のうちに島が地図の上から消えることを夢見たこともある。しかし、何も起こらないし、やがて、自分が望まなかった形で老衰死するかと思うと堪らなくやり切れなくなる」
意外な告白に由美子は驚いたが、すぐに冗談を言って、からかっているのだと勝手に解釈した。
「死は誰にも来るものでしょう?」
「そうだ。だが、そのことを実感できるには長い年月を要する」
「私には分からないわ」
「分かったら、お終いだよ。ところで、由美子は昔から美人になると思っていた」
「嫌だわ、叔父様、急に変なことを言わないでよ」と少し照れた顔をした。
「でも、美しい、それは間違いない」
由美子は寂しげに海を見た。
「美とは恐ろしいものだ。全てを焼きつく太陽みたいなものだ」
「私は、そんなに恐ろしいものに見えて?」
「もう若くないから、視力が落ちている。が、若いものにとっては違う。でも由美子が美しいのは十分に分かる」
由美子はくすっと笑った。
「今日の叔父様、少し変よ」
「いつもだ。今日に限ったことじゃない。昨日、横手夫人が訪ねてきた」
由美子は顔が少し引きつったかと思うと、突然泣き出した。
山本医師はどう慰めていいのか分からず、由美子の背中を少し摩った。
「狂っている。実に狂っている。が、狂っているのは、横手夫人だけじゃないぞ、みな、狂っている。一番の悪党は横手教授だ」
由美子が涙顔を向けると、山本医師は軽くうなずいた。
一か月後、突然、横手教授からメールが着た。この島に来るという。由美子はびっくりして失神しそうになった。切り捨てたはずの過去がまた蘇っていくような錯覚を覚えた。横手夫人が目の前に現れた時はびっくりしたが、それでも過去は切り離されていた。だが、横手からのメールが心の奥底に閉じ込めた過去を再びに水面下に浮かび上がらせたのである。
メールは拙いものだった。これが大学で教鞭をとるものの表現かと思えるほど、拙かった。が、その拙さがかえって由美子の心を揺り動かしたのである。
『君は僕の夢だ。愛している。一緒に過ごした夜のことが忘れられません。今、君のことで胸が一杯です。だのに、何も告げずに遠くの島へ消えてしまった。僕は全てを棄てる決心をしました。家族も全て棄てて、君のところに行く決心がつきました。昨日、狂乱となった妻から島に行きとんでもないことをしたと告白された。すぐに離婚だと言ってやりました。全くどうしようもない奴です。しかし、二十五年付き添ってきました。彼女には信念があります。結婚したら永遠に愛し続けなければならないという信念です。でも私は違います。心は自由だと思っています。私の心はあなたを求めています』
読んでみて滑稽だった。まるで、自分を一寸も疑っていないことに気付いた。そういう男だった。愛というものを信じていた。滑稽だが、由美子の心を引きつけた。
夏になった。美しい南の島の海を求めて人々が集った。暑くて、焼けるような日射しのなかではしゃぐ人の姿が由美子には奇異に思えた。北国で育った由美子とって、夏は異質の世界だったのである。それは太陽から降り注ぐ炎の矢だった。矢は一瞬の休みもなく天から落ちてくる。炎の矢は地を焼き、外からみると緑の森さえ緑の巨大な火柱に変っていた。島人が赤い焼けた肌をしているのは、この夏の光のせいだった。始めは生理的な嫌悪感さえ覚えた。それがやがて慣れに変わり、今では別に何とも思わないようになった。この土地に慣れると思っていたのに、この夏の暑さには由美子は閉口した。夏に対抗するためになるべく光を通さぬ白系の服を買った。それも袖が広い肌に密着しないダブダフの服である。その方が通気性は良い。外に出かけるときは、麦藁帽子を被ることにした。ちょっと野暮ったい感じがしたが、それ以外に暑さに耐えられる方法が考えられなかったのである。
歩いていたら、ふいに横手の「君は僕の夢だ」という手紙のフレーズを思い出した。
由美子は立ち止まり、「どうしょうもないひと」と呟いた。
都会に住んでいた由美子にとって海で泳ぐことはこれといって好きではなかった。しかし、海を眺めることは好きだった。休日になると、決まって浜辺に出かけた。海辺でぼんやりと時を過ごすのだ。海を見ていると妙に心が和むのだ。
その日は朝から強い日射しが射していた。由美子は外を見て、眩しい日射しを知ると、麦藁帽子を被り、自転車に乗って波止場に行った。
自転車から降りた。海で大輔が泳いでいるのが、眼に映った。既に身体は大人顔負けの立派な体格をしていた。海から上がってきた。大輔君と声をかけると、由美子のそばに来た。
「大輔君は泳ぐのが好き?」
大輔はうなずいた。
「先生は?」
「あんまり」と苦笑いをした。
空を見上げると、次から次へと白い雲が悠々と青空を駆けていくのが見えた。そのとき始めて季節が夏になったことを知ったような不思議な感じがして由美子はひとり笑った。ふと大輔が見ていることに気づいた。
「どうしたの、今日は?」
「父さんを迎えにきた」と嬉しそうに答えた。
「先生は?」
「知り合いが来るの」
「知り合いって、大切な人?」
由美子は視線をそらし、青い海を見た。
「嬉しそうだね。お父さん? それとも、お母さん? お友達? 好きな人」と大輔が言うと、由美子はゆっくり首をふった。
「じゃ、誰?」
「子供は知らなくともいいの」
たぶん子供扱いされたことに怒ったのであろう、「馬鹿野郎!」と大輔は怒って由美子の足を軽く叩いた。
由美子は少し痛そうな顔して、足をさすった。大輔は心配そうな顔をしてそれを見た。
由美子はしゃがみこんだ。
「だいじょうぶよ。でも、大輔君も大人と違わないくらい大きいから、人をむやみに蹴ったりしちゃ駄目よ」と諭すと、素直にうなずいた。
「もう、叩かないよ」と神妙に呟いた。
由美子は微笑んで、坊主頭をなぜた。
「船だ!」と由美子に向かって叫んだ。
海は昼の光を浴びて輝いていた。
「どこ?」と由美子は手を翳し青い海を見た。
「あそこだよ!」と大輔が指差した。
指の先に白い軌跡を描いた船があった。
「もうすぐ船がつくね」と大輔が言うと、由美子は嬉しそうにうなずいた。
由美子が横手教授と恋におちたのは二十一の時のことだった。二十三の時、別れた。教師になったのは、恋を忘れるためだった。もう二度と会うことはないと決めていたのに。
汽笛が聞こえてきた。由美子は帽子を被った。やがて波止場には人の波ができた。
船がついた。大輔が駆け出した。タラップから人が降りてきた。人込みを避けるように、由美子はその場所を離れた。