マリオネットの恋
由美子は麦わら帽子越しに、海を見ていた。誰かが由美子の肩を叩いた。見ると、白い背広姿の横手教授である。嬉しそうな顔をしている。
ふと、由美子が振り向くと、大輔とその父親がいた。大輔が父親に向かって囁いた。すると父親が軽く会釈して去った。
その横手教授は無邪気な悪魔、まるいは、希有の詐欺師。そう思っていても、由美子にはなぜかひかれるものがあった。眼を見てはいけない。言葉を聞いてはいけない。でも、由美子は耳も目もふさぐことはできない。
「どうした、顔に何かついているか?」
「何も?」
「由美子、君は実に不思議な女性だ」
「どうして?」
「どうしてって……何となく現実離れしている。まるで童話の中のお姫様ようだ」
「そうかしら? じゃ、あなたは悪魔ね」
横手教授が島に滞在して三日が経つ。由美子はどんなに断っても、夜ごと呼びされ抱かれてしまう。日々の逢瀬が、忘れようと思いを少しずつ消していった。また、島では横手教授が由美子の恋人であるという評判が広まった。その噂は当然、大輔の耳にも入った。そして大輔は由美子を避けるようにした。
学校から帰る途中、突然、雷が鳴り出した。すると、素早く驟雨が降り出した。大輔が駆け出そうとしたとき、大輔の手を由美子は掴まえた。
「傘があるの、お家まで送ってあげる」 と由美子は傘を出した。
土砂降りの中を、二人肩を寄せ合って歩いた。十四才の大輔はすでに由美子と同じくらいに大きかった。 遠くからみれば、恋人同士のように見えたかもしれない。
「朝、あんなに天気が良かったのに」と由美子が言ったが、大輔は何も答えなかった。
「大輔君は大きくなったら何になるの?」
「漁師」と小声で答えた。
「海は好き?」
「そう……先生も海が好き。京都の生まれだけど、海が好き、青い海が好き。大輔君はどうして海が好きなの?」
「分からない……でも、泳げるから」
「そうね、大輔君は魚のように泳げるものね」
「先生は金槌か?」
「金槌じゃないけど、それに近いわ」
大輔が笑った。
「この前の人、先生の恋人?」と大輔がたずねた。
由美子は驚いて、大輔の顔を見た。すると大輔の顔は真っ赤になった。
「どうしてそんなことを聞くの? 違うわ。気になる?」と由美子は逆に問うた。
「別に」と大輔は答えた。
「単なる知り合いよ」と由美子が答えると、大輔はどうでもよかったような顔をした。
どうして嘘をついたのか、自分でも由美子はわからなかった。少し、気まずい雰囲気になった。
「先生、ここでいい」と大輔が雨の中を駆け出した。
夜、大輔が父親とともに来た。
「先生、頼みがある」とぶっきらぼうに父親が切り出してきた。
「何でしょう?」と不思議そうに由美子は尋ねた。
「この子を、二、三日の間、預かって欲しい」と頼んだ。
「どうして?」
「恥ずかしい話ですが、女房が東京に帰ってしまったから、連れ帰ってくる」と父親が言った。
大輔は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「いいわ」と由美子は言った。
「こいつは、ひとりで夜を過ごせられない。十四にもなって」と父親は呆れた顔をした。
その日から奇妙な共同生活が始まった。十四才といえ、男には違いなかった。
だが、さすがに大輔との共同生活を始めるからには、横手教授と夜をともにするわけにはいかず、昼過ぎにホテルにいる横手教授に電話をした。
そしてぶっきらぼうに「もうあなたと会えない」と告げた。
「なぜ?」
「なぜって……分からないの? 男ができたの」
「誰だ?」
「いちいちあなたに言う必要はないわ」
「ずいぶんと成長したな。俺に抱かれながら他の男とも恋仲になったというのか?」
由美子は横手教授のあまりの身勝手な論理に腹が立った。つい昨日まで、抱かれていた自分にも無性に腹が立った。会話をするうち、別れるしかないと決意を固めた。
「そうよ」
「おとなしそうな顔をして、ずいぶんとひどいことをするな。お前のせいで妻はとうと精神が狂って病院に入った。もう二度と島に行くこともないだろう。そして、その嫉妬に狂った、哀れな妻と別れようとしている。子供には悪魔と罵られたよ」
「別れるのは、単なるあなたのわがままよ」
「いいか、俺はお前を愛している」
「そういわれて、体を許してしまった。あなたは二十一の私をたぶらかした」
「随分、ひどい言い方をするな、昨日も、お前もベッドの上で愛していると言ったぞ。あれは演技だというのか?」
「そうよ」
「何をそんなに苛立っている? 何がお前を変えた」
「苛立っているわ。あなたに操られていた自分に。私はあなたにとって、都合のいい操り人形だったということがようやく分かった。そして、私を変えたのは、あなたの知らない男よ」と由美子は笑った。その笑いを聞いたとき、横手は電話を切った。
夕方、大きな袋を背負った大輔がやって来た。大輔はもうじき十五歳になる。急いできたせいか、汗が流れている。その汗をハンカチで拭いてやったとき、少年というよりも男の匂いのようなもの感じずにはいられなかった。
夜、独りぼんやりと星空を見ていたら、恭子から電話が着た。
「もう寝た?」
「まだ起きているわよ。十一時だもの」
「あのね。嫌な噂だけど、横手教授の奥さんが発狂し、近所の人を傷つけたというの。それもあなたが原因で」
「気にしないわ。他人の不幸は蜜の味よ。でも人の噂も所詮、七十五日。ぱっと消える。でも横手教授をくびになるみたい。あちこちで女性トラブルを起こし、さすが教授会も見過ごすわけにはいかないということで処分する方針を決めたみたい」
「恭子は大学に残るの?」
「残るけど、どうして?」
「別にどうってことはないけど、私は当分、この島にいる。そこで何をするの?」
「今は臨時の教師をしているけど、この島に住み着くかも」
「本気で?」
「本気よ。そしてここでなら、本当の恋をすることができそうな気がするから」