マリオネットの恋
「怖くて、震えていました。あまりに怖くて布団を被って耳を塞ぎました」
「それはとんだ災難だったな」
山本医師が他人事のように言ったのが可笑しくて、由美子は笑い転げた。
「今日、校長が来る」
「いつ頃?」
「昼頃だ。会ってみるかい?」
子供の頃と同じように試すような眼差しで由美子を見た。それを見て、由美子はまた笑い転げた。
「どうした? 今日は変だぞ、まるで十四、五の子娘みたいに笑って」と不機嫌な顔をした。
「ごめんなさい、叔父様の目をみていたら、遠い昔のことを思い出して。そしたら、今にもその頃に戻れるような気がしたのが可笑しくて、だって、叔父様の目は、私が十二、三の頃とちっとも変わっていないもの」
山本医師は照れるように笑った。
「ところで、会うかい?」
由美子は了解という意味で首を縦にふった。それを見て、山本医師は立ち去ろうとした。
「ねえ、叔父様」と由美子は呼ぶと、山本医師はふりかえった。何とも言えない切なそうな顔をして見た。
「人は何もかも忘れることってできるかしら?」
山本医師は変わらぬ表情で答えた
「分からない。忘れようとしても忘れられないことがある。忘れまいとして忘れることがある。自分自身のことなのにままならぬ。だが、死ねば否応なしに何もかも忘れて、この世を去る。何もかも一時のことだ。気にするな」
「よく分からないけど、気にするなと言うこと?」
「そういうことだ」
山本医師は去った。由美子は波間に足を入れて、一人ではしゃいでいた。そこに三人くらいの男ばかりの若者のグループが近づいて来た。
「君はひとりかい?」と背の高い男が言った。由美子は無視した。すると、もう一人のチビの男が由美子の前に立ちはだかった。
「俺たちと遊ぼうよ」
由美子は帰ろうとした。チビの男が由美子の手を取ろうとした。すばやくその手を払った。
「ごめんなさいね、男はもう間に合っているのよ」と由美子は言って、彼らから離れた。背中の方から、「ちぇ、気取るなよ」といった男達の負け惜しみにも似た声が聞こえたが、無視した。
四月になった。由美子は臨時の教師に採用された。学校では中学二年生を受け持つことになった。
ぎこちなさは六月にもなると消えた。白いシャツと白系のスカート姿は生徒達にも教師達にも好評だった。何よりも、彼女は微笑んだような顔で子供達を見る。どんな悪戯をしても、笑みを浮かべている。それが由美子を人気者にした。一人、反発した子供がいた。島でも最も貧しい家の子供で大輔という男の子である。大輔は、暴れん坊ではなかったが、力は誰よりも強く、誰よりも成績が悪かった。話し方が朴訥で、由美子が話し掛けると、いつもそっぽを向いていた。
「勉強は嫌いなの?」と由美子が尋ねたことがある。すると、大輔は「嫌いだ」と答えた。「嫌いなら外で遊んでいいわよ」と言うと、大輔は本当に外に出て行ってしまった。由美子はこの少年が気に入った。誰にも媚びず、それでいて、どこか寂しそうな目をしているところが気にったのである。
由美子は東京にいる友達に手紙を書いた。由美子は電話よりも手紙の方が好きだった。
『都会にいた頃に比べて、今の生活は充実しています。言葉では言い表し難いけど、それに近い何かが自分の中で起こっています。都会と違って子供達はひねくれていません。彼らはまるで向日葵のよう、私は、彼らの太陽になったみたい。一人だけ、うまく馴染めない子がいるけど……でも、ここは東京と違う。風も清らかで、海は青く、太陽が燦々と輝いています。何かもが私を祝福してくれている、そんな気かします。東京に住む恭子には悪いけど、東京はひとを狂わす街、そこにいると何がいいことで、何が悪いことなのか、分からなくなってしまう。自分のことを棚に上げてごめんなさいね……。ねえ、恭子、暇が出来たら遊びに来てよ。……あなたの変わらぬ友より』
六月になった。大輔が突然、黙って休んだ。三日続いた。由美子はあまり他人のことに関心を持たないことが、少し大袈裟にいえば彼女の人生のスタンスだった。だから、生徒のうち誰かが黙って休んでも、取り立てて大騒ぎすることもなかった。また、変に心配することもなかった。が、さすがに三日も休まれると、放っておくわけにいかなかった。
「ねえ、大輔君、どうしたのかしら?」とクラスの男の子に聞いた。
「知らねえ!」とその子は答えた。すかさず、別の男の子が言った、「ずる休みだ!」
「そんなことはないよ!」とクラスで一番小さな女の子が言った。
「奈津子は大輔のことが好きなんだ!」とまた別の男の子が言った。
「違う!」と奈津子が言い返した。
「嘘だ! 嘘だ! みんな知っているぞ!」とその男の子は繰り返した。奈津子のリンゴのような頬はもっと赤くなった。教室中、蜂の巣の突いたように大騒ぎになった。奈津子の目頭が熱くなっていて、今にも泣きだしそうなのを由美子は気づき手を叩いた。
「さあ、授業を始めるわよ。静かにしなさい」
授業が終わると、奈津子が由美子のところに来た。
「先生、大輔のお母さん、病気です!」と言うと、奈津子は素早く去った。
次の朝、由美子は早く起きて、大輔の家を訪ねた。大輔の家は海沿いにあった。まわりの家よりも、みずぼらしい感じがした。
戸を開けて、挨拶した。誰も出てこない。奥の方から小さな子供の泣く声がした。それを叱る大輔の声がした。もう一度、大きな声で由美子は挨拶した。すると、奥の方が静まりかえった。小さな女の子が飛んで来た。それを追いかけるように、大輔が走って来た。大輔は由美子の姿を認めると、黙ったまま、じっと睨んだ。
「今日は、大輔君」と小さな子供もみたいな快活な声で言った。
大輔は黙ったままだ。
「ねえ、どうしたの?」と由美子は不思議な顔をして尋ねた。
「何でもない!」と怒鳴った。
「何でもないなら、学校に来なさい!」と由美子は言い返した。
「行かない!」と大輔も負けずに言い返した。すると、そばにいた小さな女の子は突然泣き出した。
「ごめんなさいね」と由美子はその子の頭を撫ぜた。その子は恥ずかしそうに大輔の影に隠れた。
「ねえ、大輔君、何でも相談にしてよ」と由美子は哀願した。
「何も相談することはない! だから帰ってください!」
力強い意思表示であった。しかたなく、由美子はその家を出た。大輔は不思議な生徒だ。
ひねくれているわけでもないが、決して心を教師に開こうとしない。馬鹿でもないのに、いやむしろ賢いといってもいいのに、何も勉強しようとしない不思議な生徒だ、と言った校長の言葉を思い出しながら学校に向かった。その後ろ姿をずっと大輔が見ていたことを、由美子は気づかなかった。
由美子は授業を終え家に戻り食事を済ませると山本医師を訪ねた。そして、今日のことを話した。
「大輔君は私のことを嫌いなのかしら?」
「そんなことはないだろ」と山本医師は答えた。