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マリオネットの恋

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『マリオネットの恋 』

そこはサンゴに囲まれた島だった。四方に青い海がどこまでも広がっている。
由美子がその島に来たのは、春先のことである。
船を降りたとき、由美子は夏のような強い日射しに見舞われた。あたりを見回すと、何もかもが光輝いていた。
島の医師である山本勘吉が船から降りた由美子を破顔の笑顔で出迎えた。
「ずいぶんと別嬪さんになったな」
二十四歳になった由美子は背がすらっと伸びて、端整な顔立ちは女優のように美しかった。
六十過ぎの山本医師は白髪で小太りである。数年前に夫人を亡くし今は独り暮らしている。日焼けしていて、まるで漁師のように日焼けしている。由美子の親戚でもある。
山本医師は自宅の近くの一軒家に案内した。そこが由美子の新居である。
「海が見えるだろ」
由美子はうなずいた。
何もさえぎるものがない。遠くの青い水平線が見える。そのうえに次々と起こってくる白い雲……本州とは明らかに違っている。それに別世界のようで人工的なものが何もない。
「東京とは違うだろ」と山本医師は眼を細めた。
「東京との違いを実感できるのは今のところ暑いということだけよ、おじさま」と笑みを浮かべた。
「青い海がある。緑におおわれた島がある。まるで神がくれた島だ」
「あら、叔父様はいつから神を信じるようになったの?」
「ずっと昔からだ。昔から大いなる自然を恐れあがめていた」
「そう……」と言うと由美子はくすっと笑った。
「可笑しいか?」
「いいえ、ちっとも。でも、人は近く居ても分からないものですね、母なんか、未だに叔父様のこと無神論者の輩と信じているわ」
山本医師は答えなかった。過ぎ行く雲の遙か彼方を見ているようだった。
「全てが夢にように美しいけれど……でも」と由美子は言いかけてやめた。
「でも、何だ?」と山本医師は由美子を見た。
すると、今度は由美子が遠くの方を見ていた。
「でも……全ては別世界のように見える」
「いや、そう思うのは病院暮らしが長かったせいだろう。手を伸ばせば、そこにあるんだ。後は由美子次第だ」
「手を伸ばせば? そこに何があるというの?」
「何もないが、美しい自然ある。人が生きていくにはそれだけで充分だ」
その時、由美子の足元に何かがぶつかった。焦げ茶したまるで子豚のような猫だった。 由美子は悲鳴をあげた。すると、山本医師は大笑いした。由美子が睨むと、山本医師はすまなそうな顔をした。
「こいつは、わしにとって家族みたいなやつだ。昼間はあちこち歩き回る。ここのこいつの活動範囲だ。猫は嫌いか?」と言って抱き上げた。
「いいえ、でも、好きでもないわ」
「好きでもないか……。ときどき遊びに来るが、相手をしてやってくれ」
「分かりました」と由美子は応えた。
「我が家には他に鶏が二羽いる」
「鶏も!」とびっくりした声をあげた。
「鶏だけじゃない。蛇もとかげもいる。蟹もエイもいる。ここには、実に多くの動物がいる」
「そうね」
由美子は猫に手をやった。猫はおとなしく、その手を受けとめた。
「猫も案外かわいいものだろ」
由美子はうなずいた。
「病気のことを聞かないの?」
由美子をこの島に来るように誘ったのは、山本医師である。由美子が何者かに襲われ、左足に怪我を負った。それ以来、被害妄想的な脅迫観念に苛まれるようになったのを知った山本医師が島で療養するように勧めたのである。療養と同時に教師になることも勧めた。この島に教師が足りなかったのである。由美子はそれに素直に従った。
「もう治ったんだろ?」
由美子は悲しげに首をふった。
「まだ、夢を見るの。恐ろしい夢を。私を殺そうとする悪夢を」
「信じられん」
「何が?」
「由美子がこともあろうに妻子のある男性を愛するなんて」
「過ぎたことですわ」
「しかし、許されることではない」
「不道徳?」
「少なくとも、道徳的とは言いがたいだろ?」
由美子はうなずき、過ぎたことを思い出した。……あれは恋ではない。愛でもない。無性に寂しかった。男はその寂しさを埋めてくれた。しかし、あれが恋でも愛でもなかったなら何であったのであろうか。その男は他の男と違って生きているという実感を与えてくれたのは事実だ。あの男の腕の中でいるとき生きているということを実感できた。それだけで充分だった。それ以上のことを望まなかった。それなのに、あの夜、一つの事件が起きた。月が出ていた。丸い月だった。男と密会した後、自宅に帰る途中だった。彼女の前に何か恐ろしいもの形相したものが現れた。刹那、彼女を睨んだ。そして、その者は喚いた。刃物を切り付けてきた。何が起こったか分からなかった。気づいた時、病院にいた。母が悲しみにくれていた。警察が来て、事情聴取した。友達が見舞いに来た。……だが、みな、過ぎたことだ。
「もう、忘れたわ」と由美子は呟いた。
「そうか」と山本医師は溜息をついた。
山本医師は空を見上げた。太陽が強く射している。
「叔父様、溜息ばかり」と由美子は微笑んだ。
「歳をとった証拠だな。それより台風が来るかもしれない?」
「こんなに天気がいいのに、でも、確かに風が強いわ」
スカートの裾が激しく揺れた。由美子はその白い手で抑えた。
二人立ったまま、ずっと空を見上げた。空では雲の壮大なドラマが展開していた。
水平線の近くでは白い雲が次々と起こっている。やがて、青空を埋めつくすだろう。
「春なのに」
「ここは南の島だ、春でも台風は来る。しっかり戸締りをしなさい。心配ならわしの家に来るがいい」
「叔父様、わたしも二十四よ」
東京の有名女子大で教育学を専攻して、そのうちに日本史が好きになり、大学院に進み日本史を専攻した。その二年目で中退したのである。 中退した原因は指導教授である横手明との関係が広まったためである。横手は知的な風貌で優しく語りけるために女子学生に人気があり、また女の扱い方がうまく、女を自由気ままに操る人形師と陰口を叩かれている。
「二十四か。随分と大人になったな。わしが知っている由美子、小さくて、可愛くて、思わず頬擦りしたくなるような可愛かった」と寂しげに答えた。

その夜、激しく吹く風が音を立てて窓ガラスを叩いた。眼に見えない狂人が叩いているとしか思えないほど激しく叩く。由美子は怖くなって震えた。外が突然光った。停電となった。それからまた雷が鳴った。どれほど続いたことか、彼女は足が震えて止まらない。どうにか布団にもぐり込み、止むのを待った。胸が激しく高鳴る。彼女はいつしか浅い眠りに入った
しばらくして、目覚めた。雷は止んでいた。身を起こして、ラジオをつけた。台風は少し逸れて去ったことを教えてくれた。由美子はほっと安堵した。
窓を開けると、風が入ってきた。汗ばんだ身体にはちょうどよかった。涼やかな風が汗ばんだ体を乾かしてくれたからである。

次の日の朝、由美子は強い日射しを避けるために麦藁帽子を被り、海辺を散歩した。そこに山本医師が来た。
「すごい風だったが、眠れたか?」
作品名:マリオネットの恋 作家名:楡井英夫