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一輪の花が咲く

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『一輪の花が咲く』

タイラ・ヒロシはうだつの上がらない男で、会社では無能と烙印を押されている。定年間近に控えて上司のアカボシ部長が一週間に一回は声をかける。
「そろそろ、会社を辞めて第二の人生を考えたらどうが?」
その度にヒロシは叱られた犬のような神妙な顔をして何も応えない。そうすると、ねちねちとアカボシの話が続く。
「会社に貢献できていない人間を雇い続けるほど、わが社が大きくないのは君も知っているだろ?」
大きな会社なら、パワハラと訴えることも可能であろう。だが、小さな会社で訴えても、何も得にならないばかりか、かえって居づらくなるだけである。ただ沈黙するしかない。
話続けることが時間の無駄と分かると、アカボシは呆れた顔で部長席に戻る。大きな椅子にふんぞり返り、「良いよな。責任のない社員というのは」と大きな声でヒロシに聞こえるように言う。
周りの社員は恒例のことなどで、誰も気にしないが、ヒロシは泣き出したい思いを必至にこらえている。会社を辞めるわけにいかないのだ。貢献できていない現実を彼も理解している。それでもしがみついていかざるをえない。行先もないし、何もしないでいられるほど経済的な余裕などないからだ。
二十五年も働き続けた。会社の発展のために幾何かの貢献もしたと自負しているときもあった。しかし、些細な事件が起こり、責任をとらされ、課長から平社員に降格された。本来ならアカボシがその責任を負っていいはずなのだが、彼はずるく責任を全てヒロシに押し付けた。もう十年前のことだが、ヒロシは忘れていない。そのときの悔しさもしがみつく一つの理由である。
つい最近、ヒロシは直属の上司と飲んだ。上司はかつてのヒロシの部下で、ヒロシに対しては好意的であるが、気が小さい。飲み過ぎたせいもあったかもしれないが、それよりもアカボシからの圧力に耐えられなかったのであろう。つい本音を漏らした。
「部長がうるさいんだよ。早く辞めさせろと」
「俺も辞めたいのはやまやまだよ。でも、五十過ぎた人間が簡単に次の仕事を見つけられると思うか。それに面倒を見なければならない妻も親もいる。定年退職まであと五年ある。それまで何としてもしがみついていこうと思っている。みっともないと陰口を叩くも者もいるのも知っているよ。どんなに肩身が狭い思いをしても残る」
ヒロシには今年五十三になる嫁がいる。脚を悪くしている。わずかでも生活費を稼ぐために近くのスーパーで働いている。が、月十万にもならない。夕食のおかずは一品だけである。缶ビールを飲みながら、テレビを見るのがささやかな楽しみである。これ以上、下げることのできないぎりぎりの生活を送っている。
「部長に言ってくれよ。本当にやめさせてほしいなら、退職金に少なくとも五百万上乗せしてくれと」
上司は呆れた顔をしてただヒロシを見た。というのも、定年退職しても退職金は五百万ぐらいしか出せないからである。

ヒロシの一日は決まっている。
朝、六時には起きる。会社に行くのが辛いと思いながら身支度をする。辛いという気持ちも、脚を引きずりながらも甲斐甲斐しく家事をする妻の姿を見ると消える。もう少しがんばろうと、自らを叱咤激励して会社に向かう。五時半まで会社に居て、することもないので直ぐに退社しまっすぐに帰る。電車と歩きで一時間半かけて家に着く。妻と一緒に夕食をとる。ありふれた生活だが、それで幸せだと思わない日はない。だが、長く続くかないと思っている。それぞれの実家には、もうじき介護が必要な親がいるからだ。実母はもうじき九十になる。義理の両親は八十代後半である。十分な介護ができる施設に入れてやりたいが、入れてやるだけの金銭的な余裕がない。それぞれで介護しなければならないと覚悟を決めている。介護が終える頃には、今度、自分たちが介護される年齢になっているが、介護してくれる者はいない。ヒロシの現在も将来も決して明るくないのである。

そんな中で、春先にぱっと一輪の花が咲いたのである。まるで明るくない生活に灯をともすかのように。
高校出て直ぐに東京の小さな会社に就職した娘のマチコがいる。今年、三十一歳になるがめでたく結婚したのである。金がないから結婚式はあげなかったが、三月に新居を見つけて、婿と一緒に暮らし始めた。
長旅ができない妻がどんな暮らしているのか見て来いと言うので、ヒロシは独りで見に行くことにした。

そこは東京駅から四十分かかる埼玉の小さな駅である。
日曜の朝に出発し夕方に着いた。駅を降りると、町は夕焼けに染まっている。
娘と婿が出迎えた。娘はさほど美人ではないが明るいのが取り柄である。婿も同じようにぱっとしない男だが、それでも朗らかで人が良さそうな顔をしている。
 案内された新居は駅から歩いて五分ほどの古いアパートである。三階建てだが、エレベーターがない。駅から近く家賃が安いから選んだと娘は言った。アパートは湿っぽく階段は急である。きっと妊娠したら昇るのは大変だろうと思いながら、娘の後について行った。
 部屋は狭いが、リフォームされていたせいか、思いの外きれいである。
「今晩、どうする? 泊まっていく?」と娘がそっと聞くので、
「いや、帰る」
「どうしても?」と顔を曇らせる。
「電話で伝えたとおりだ。親戚の家で法事がある。母さんは脚を痛めて出られないから」と言うと、「仕方ないわね」と娘は残念そうに言う。
法事などない。ただ新婚生活を邪魔したくなかったのである。
 夕飯を用意するのは面倒だったのか、近くのレストランに連れていかれた。
ワインで乾杯をして細やかに晩餐を始めた。
「あそこでずっと居るのか?」とヒロシが聞くと、
「いずれはマンションを買いたい」と婿が言う。
「でも、最低五、六年はかかるよ。それまで我慢してあそこに住むつもり」と娘が言う。
 一人娘だが、新居の援助はしてやれない。できることは遠くから見守っているだけだ。
「そうか」とヒロシは応える。
 娘はいろんな話をした。どこで婿と知り合ったとか。しかし、ヒロシには、どうでも良かった。娘が幸せになれた。その事実だけで満足だった。
食事が終わりそうになったとき、
娘が「老後はどうするの?」と聞いた。
ヒロシは笑って、「余計な心配するな。俺たちのことは俺たちで片を付ける。お前たちは自分たちの幸せだけを考えてくれ。それだけで十分だ」
晩さん会は終わり、清算のため娘がレジに並んだ。
ヒロシは婿に「娘を選んでくれてありがとう」と深々と頭を下げた。
駅前で別れた。娘が終始機嫌よく幸せそうな顔をしていたので、ヒロシはほっと胸をなでおろして二人がアパートに向かう後ろ姿を見送った。
電車に乗ったとき、既に夜のとばりが下りていた。
電車の中でいろいろと考えた。会社は針の地獄である。妻は脚が悪くなり、治療費がばかにならない。親は年金とわずかな貯えでかろうじて生き延びている。明るい話はどこにもない。それがひとえに自分の能力の無さからくるものだと分かってもやりきれない。だが、娘が結婚して幸せになったことで、それを支えして、仮にどんな暗い人生が待っていたとしても歩んで行けるような気がして、少し明るい気持ちになった。
作品名:一輪の花が咲く 作家名:楡井英夫