飛んで火にいる夏の虫
ちょうど、風が吹いた。一瞬、ケイコの裾がひらひらと宙に舞った。あたかも、それは大輪のバラのようで、マコトの目には、ケイコが淡いピンク色のバラから生れた美しい妖精のように見えた。その一瞬の光景が、さらにケイコの元へ引き寄せた。
「いやねえ」と言ってすぐにケイコは裾を押さえて、スーパーの中に消えた。
ケイコが消えると、マコトはすぐに母親に電話をして、わけも話さず五十万振り込んでくれと頼んだ。
「ギャンブルとか、悪い遊びとかじゃないよね」と母親は聞いた。
「絵を描くためにどうしても必要なんだ。秋にある展覧会に出展するために絵を描く。そのためにどうしても必要なんだ」と必死に頼むと、
「分かった。一時間後に振り込んでおくから」
マコトは夕方、ケイコの部屋に訪れた。ちょうど、ケイコは夜の仕事のために化粧をしている最中だった。香水をつけたばかりなのか、とてもいい匂いがした。
「これ、さっき約束したモデル料の二十万です」と言って渡した。
翌日からケイコがモデルになった。
八月の半ば、ちょうど約束の一か月が過ぎようとしていた。絵はほぼ完成した。だが、どうもしっくりしない。何かが欠けていた。
モデルになる最後の日の夕方のことである。
下の階に住む初老の土木作業員ツトムがノックした。彼とはさほど親密ではないか、ときたま飲みに行く関係である。
「よ、これは未来のゴッホ君、何を描いているのかね?」とドアを開けるなりツトムは訪ねた。彼はずいぶんとごきげんだった。マコトが描いている絵を見て、
「こりゃ、別嬪だな。でも、どこかで会ったような気がする」
誰かがまたノックをする。マコトがどうぞというとケイコが入ってきた。きれいな白の服を着ていた。ツトムはまじまじとケイコを見た。
「失礼です、そんな見たら」
「どこかで会ったと思ってね」
「どこって、どこですか?」
「よくないところだ。吉原のソープランド、いや、目の錯覚だな」とマコトの方を見てウィンクをした。
確かに数日くらい働いたことがあったから、ケイコは少し動揺した。その表情を見られまいとして顔をそむけた。ツトムは哄笑した。
「何がそんなのおかしいの?」
「おかしいじゃない。ただ、楽しいだけだよ。人生は楽しまなくてはいけない。重荷に背負うだけが人生じゃない。そうだろ? お嬢さん」
「え、え」とためらいながらケイコは同意する。
「お嬢さん、手をみせてくれないか?」
「手を?」
「別に心配することは取って食ったりしない。手相を観てやろうと思ってね。ところで手相を信じるかね?」
「いいえ」とケイコは毅然と答えた。
「それは愚かな、人の運命というのは、あらかじめ決まっている、誰も避けることはできない…どれ、未来の画家よ、先に君の手を見せてごらん」
マコトは手を出した。ツトムはじっとマコトの手を見た。
「どうです?」と心配そうに聞いた。
「間違いなく画家として成功する。いや、その可能性が多少はある、と言った方が正しいだろう」
「本当ですが?」
「あ、あ、だが…一つ難点がある」
「難点って?」
「女難の相がある」
「女難?」
「そうだよ。悪い女に食い物にされ、夢もつぶれてしまう、と手相に出ている」
「本当に手相が分かるんですか?」
「何を言うか、これでも昔は占いで生計を立てていたんだ」
「どれ、お嬢さん、手を出して」
ケイコはいやいやながら手を出した。
「何ときれい手だ、こんなきれいな手を観るは何年ぶりのことだろう…」
「しかし、あんたは…」とツトムは口ごもった。
「何か悪いことでも」とケイコは心配そうにたずねた。
「いや、何でもない…ただ、男には気をつけた方がいい」
「そんな言い方はないよ」とマコトは抗議した。
なおも、その手を離さず、「いや、失礼、あなたのような別嬪さんは、絵にしたらさぞかし美しいだろう、な、未来のゴッホさん?」と言ってツトムは消えた。
しばらくして、「今日でお約束は終わりです」とケイコが切り出した。
「分かっています。絵はほぼ完成しています。でも何かが足りない。それが何なのかが分からない。もう一か月、延長をお願いしていいですか?」
ケイコはしばらく考えたふりをした。そしてためらいながら、「もう予定が入っているの。もし、その予定をキャンセルするためには、こっちがキャンセル料を払わないといけない」
「幾らですか?」
「十万です」
「分かりました。二十万に十万をプラスして三十万、お支払します」
商談は成立した。
締め切った部屋で、マコトはケイコを眺めなら絵筆を進める。
マコトは気づいていなかったが、ケイコは少しずつ露出の多い服になっている。媚薬のような香水をつけ、ときおり誘うようなまなざしを向ける。マコトはケイコの周りをぐるぐるとまわりながら、少しずつ手繰り寄せられていることに、気づいていない。
その夜、マコトが買い物から戻り部屋に戻ろうとすると、ツトムが声をかけた。
「部屋に上がっていいか?」
「どうぞ、散らかっていますけど」
「久々、一緒にビールを飲みたくて、ビールを買ってきた」
飲み始めて一時間ほどした頃、ツトムが「あの女とどういう関係だ?」
「あの女って、誰ですか?」
「隣に若い女だよ」
「別に何でもありませんよ」
「親密な関係に見えたけど?」
「いえ、違います」
マコトはモデルになってもらっていることを話してはいない。話す義理もないと思っている。
「でも、君は描いている」
「少しだけです。ほんの少し…だけ」
「ほれているな」
「そんな…」と顔を赤らめて絶句した。
確かに恋をしている。寝ているとき、ときどき、悩ましい恰好したケイコが出てきて誘うのだ。
「わしの眼は千里眼だ。何でも見通すことができる。君はまるで子供と同じだ、誰でも分かる。忠告しよう、あれは止めた方がいい。ああいう女は男を不幸する。それに何かあやしい商売もしている。俺は見たことがある」
「どうして、そんなひどいことを! ホステスをしていると言っていましたが、決して変なことはしていないと言っています」と若い画家は声を荒げた。
「考えてみろ、あんな別嬪さんが、何でこんなところに住むなんだ。普通ならありえない。おかしいとは思わんか?」
「別に?」
「やっぱり、君の眼は節穴だな、いや、それよりも人生を知らない」
雨は降り始めた。
マコトの怒りが沸き起こった。言葉にはしなかったが、その眼は憎悪の炎で覆われた。
「いや、悪かったよ。君を怒らせるつもりはなかった。悪く思わないでくれ、なあ、お前は何を描くのかね?」
「何でも描きます」
「画家にせよ、小説家にせよ、芸術家は人生を知らなければ人の心を捉えることなんかできない。君はまだ本当の恋をしたことがないな? 恋とは心と体を通わせることだ。恋を知らなければ、人生を知ることはできない。つまり女を知って初めて人生を知る。でも、あの女はよせ。あれは男を食らう禽獣だ。あんな色っぽい女はウンカのように男が寄ってくる。大部分の男は食われ、何人かはペットのように可愛がられる。男がいるぞ、絶対に」
「どんな…?」と今にも胸が張り裂けそうな顔をしてマコトは言った。
作品名:飛んで火にいる夏の虫 作家名:楡井英夫