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飛んで火にいる夏の虫

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『飛んで火にいる夏の虫』

マコトが住むアパートはN町にあり、飲み屋が集中する夜の街に隣接している。そこは入り組んでいて、古いアパートが多い。マコトが住むアパートもその例外ではなく恐ろしいほど古い。おかげで家賃も滅茶苦茶安い。住人の多くが飲み屋で働く若者である。
資産家である父親の援助さえ受ければ、マコトはもっと良い所に住めるはずなのだが、将来を巡って喧嘩しているため、援助を一切受けていない。アパート代も生活費も、みな彼が働いて稼いだ金で賄っている。マコトはこの幽霊が出そうなオンボロアパートに美大を出た年に引っ越してきた。やがて六年が経つ。
今年、二十八になるマコトは、相変わらず昼はアルバイト、夜、黙々と絵を描くストイックな生活を続けている。
母親が心配して事あるごとに、「早くお父さんに謝って戻ってきなさい。絵描きになる夢を捨て、お父さんの会社を継ぎなさいよ。そうすれば、将来が安泰よ」と諭すのだが、耳を傾ける気配はない。展覧会に出しても入選しないので、才能がないのではないと見切っている。マコトも才能がないかもしれないと内心思っている。しかし、まだ三十である。見切るのは早い。今一度、世に問うてみたいのだ。本当に才能はないのかと。そのためには渾身の一作を描きたい。渾身の一作を描くためには何を描けばいいのか。彼は焦っていた。

梅雨が明け、夏が始まった。
突然、美しくて若い女がマコトの隣の部屋に引っ越してきた。
その翌朝のことである。ちょうど、マコトが部屋を出たとき、引っ越してきた女が隣の部屋に入ろうとしていて、その瞬間、視線が合った。
女はお辞儀をして、「はじまして」と挨拶した。
女は清純そうで、それでいて妙に色っぽい。何ともいえない甘く声をしている。魔性の女と言ってもいいくらい魅力的な女である。マコトの目は彼女に釘点けになってしまった。女もじっと自分を見ていることに気付き、慌てて、「こちらこそ、宜しくお願いします」と返事をした。
「私、昨日、こちらに引越ししてきた野島ケイコといいます」
「僕は田崎マコトです」
「隣同士ですね。これからよろしく」と微笑みを浮かて、ケイコは部屋の中に消えた。
美しい笑みがマコトの心にいつまでも残った。リードで犬が引き寄せられるように、マコトはぐいと彼女に引き寄せられたのである。

夜になっても、魔性の女のように美しいケイコがいつまでもマコトの心から消えなかった、それまで人物画というものに興味を持たなかった彼が、突如、ケイコを描きたいという欲望が起こり、それが抑えがたいものになってしまった。恋と呼んでもいいかもしれないがマコトの心に沸き上がった。悶々としていると、ふと、閃いた。彼女を描こう。それが自分の進退を決める一作になるはずだと。
その時から、暇さえあれば、昼夜を問わずケイコを思い浮かべ黙々と描き続けた。だが、どうもうまくいかない。細かいところが全く分からないからだ。マコトはまたも焦った。

 ケイコには女優になるという夢があったが、うまくいっていない。なるほど、ケイコは女優のように美しいが、だからとって美しいだけでは女優になれはずがない。美しい以外に光るものが必要なのだが、彼女にこれといったものがない。そのうえ、プライドが高すぎる。つまらない役を演じたり、裸になって大衆に媚びたりするのを、嫌だといって拒んできた。そのせいで、二十代の初め頃は映画に少し出たりしたものの、二十代の後半になると、仕事の依頼がほとんどなくなってしまい、昼間はアルバイト、夜はホステスをやりながら、どうにか食いつないでいた。
都会の片隅でわびしく生きているという現実が、ケイコのプライドを傷つけたのは間違いない。その現実から逃避するために男から男へと渡り歩いた。だが、出会うのは、ろくでなしばっかり。何度も痛い目にあったが懲りない。そんな彼女も二十九である。一向に良くならない日々の生活に焦りだけが募っていく。どこかで大きく何かを変えなければと思っていたとき、ろくでなしの男と別れ、数百万の借金を背負いながらも、このおんぼろアパートに逃げるように引っ越ししてきたのである。そんなとき、マコトと出会ったのである。どこか普通の人とは違う育ちの良さをケイコが女の鋭い嗅覚で嗅ぎ取った。そして何かが閃いた。

 休日の晴れた日のこと、マコトが部屋を出ようとしていると、ケイコも同じように部屋を出ようとしていた。だが、それはケイコがわざと合わせたに過ぎないのだが、マコトには偶然としか映らなかったであろう。
ケイコは夏に相応しい淡いピンク色のワンピースを着ている。体の線がはっきりとわかるとてもセクシーなワンピースである。
笑顔で、「こんにちは」と話しかけると、マコトも笑顔で「こんにちは」と返事をした。
ケイコはマコトに近づき「これからどちらへ?」と聞く。
「買い物です」
「私も」
「よかったら、一緒に行きましょうか? 近くに安いスーパーがあるんです」
「本当? まだ、コンビニしか知らないから、教えて欲しいわ」
 歩きながら、二人はいろいろなことを話した。そして、互いに同じように夢を抱きながら、貧しいアパートにいるということに、驚き、また親密感も抱いた。だが、それ以上にケイコはマコトの実家が裕福であることに興味を抱かずにはいられなかった。
「マコトさんは本当に実家を継がないの?」
「迷っているんです。でも、確かめてみたい。本当に絵の才能があるのか、それともないのか」
「私も同じよ。女優としての才能があるのかどうか、確かめてみたい」
マコトは歩みを止め、意を決した顔で言った。
「ケイコさん、君をモデルにして絵を描いてみたい。そして出展して、世に問うてみたい」
 ケイコも歩みを止めた。困惑した色を隠さなかった。近くに公園があった。
「本当に?」と聞き返した。
「本当です」
 ケイコの目は輝いた。蜘蛛の巣に獲物がかかったときの蜘蛛のように。
「少し、公園で休みながら話しますか?」
「喜んで」とマコトは応えた。
 二人は公園の木陰で話をした。
 聞かれもしないのに、ケイコは色々身の上話をした。いつしか哀れな女を演じていた。
「とても恥ずかしい話です。悪い男にだまされて、食い物にされ、多額の借金を背負わされました。毎日が地獄でした。そんな生活に耐えられず、男のとこらから逃げ、引っ越してきたのです。だから、今は昼も夜も働いているけど、借金も減らず、とても貧しい生活をしています。たいしたお金にならないモデルなどをしていますが、休む暇もない貧しい生活」とケイコは悲しそうに言った。
「モデルになってくれるなら、幾らかお礼できます。たとえば二十万でどうですか? 週に三回、いや二回でもいい。夕方、一回につき二時間。それで一か月間で二十万。どうですか?」
「本当に?」
「OKなら、明日でも前払いします。それで少しでも生活の足しにしてください」
 ケイコはうなずいた。
 二人は公園を出た。五分ほどで、スーパーの前に来た。
「ここがスーパーです」
「ずいぶん、大きいのね。ありがとう」
作品名:飛んで火にいる夏の虫 作家名:楡井英夫