飛んで火にいる夏の虫
「やくざな男だろ。きっと、きざな服を着ていて、いかにも頭の中が空っぽだと言わんばかりの奴だ。どうして、美人というのは詰まらない男に引っかかるのだろ?」
「もう止めてください。自分が人生に失敗したからといって、人の人生まで悪く言うのは止めてください」
「君のために言っている。女のために人生を棒にふることはない。俺のように女で人生を棒にふることはない。君を見ていると若い頃の俺のようだ」
「もう、たくさんだ。そんな話は聞きたくない。あなたとは絶交だ」
ツトムの眼は悲しそうにマコトを見た。
マコトは、言い過ぎたと思っても、それを素直に言葉にできなかった。
マコトはケイコが帰ってくるのを待った。午前二時近くになった。いつもなら熟睡している頃だが、眠らず待った。テレビもつけず、何もするでもなく、隣の部屋の物音に耳を凝らした。けれども、聞こえてくるのは、雨の音ばかり。深夜の漆黒に降る雨の音は実に様々な音がすることに気づき、その微妙な音色に聞き入っているうちに、睡魔に勝てなかったのか、いつしか寝入ってしまった。
「だめよ!」という声にマコトは目を覚ました。壁に耳を当てた。が、聞こえてくるのはやはり雨音だけ。彼は錯覚かと思った矢先、またも声がした。
「何もしないって約束でしょう!」
咎めているが、どこか甘い響きがする。マコトは胸の高まりを覚えずにはいられなかった。
「もう、やめて、あなたこと忘れたいの…お願いだから」
マコトはそっと窓を開けた。隣の部屋の明かりが見えた。そして、男と女が寄り添っている姿が隣接するアパートの壁に映っている。その影にマコトはくぎ付けになった。男は女を抱き寄せ、くちづけをして、その豊な胸といわず、臀部を触りました。さすがにスカートの中に手を入れようとすると、「だめよ」とか「許して、恥かしいから」と哀願した切なそうな女の声が漏れる。何度か、そんなことを繰り返すうちに、男は女を裸にした。
「ずっとお前のこと探したんだ、欲しくて、欲しくてたまらなった」
「いやよ、…お願いだから…」
男は女の哀願を聞こうともせず、後ろから抱えるようして、体を重ねた。すると、女の切ない、それでいて甘いうめき声が漏れた。マコトは思わず耳を塞ぎたい思いに駆られたが、体がいうことをきかない。
男の体が微妙に動く度に呼応して、女が甘く切ない声をあげる。
「お願いだから、そんなに激しくしないで…隣に気づかれてしまう」
「ふん、それは面白い、じゃもっと激しくしてやろうか」
男の体がさっきよりも激しく動いた。女も必死に声を押さようとしながらも、それを打ち破るようなうめき声をあげる。マコトには、二匹の獣が絡み合っているように思えた。目を閉じ、耳を塞いだ。それでも男と女が重なる姿と女の切なく甘い声がした。
どれほど、時間が経ったことか。やがて何もかもが夢のように静まり返っている。
日が高く昇っても、マコトはベッドの中にいた。何か物音がする。少しずつ近づいてくる。何の音だろう。じっと耳を傾ける。しばらくして、自分の部屋の前に立つ。ノックをする。慌てて服を着て、ドアを開けると、ケイコが目の前に立っていた。
「どうしました?」とマコトが慌てて聞くと、
少し驚いた様子で「あら、今日はモデルになる日よ」
ケイコの顔をよく見た。相変わらず美しい。花のように清純だ。昨日のことは夢だったのか。
「中に入って宜しいかしら?」
「どうぞ」
ケイコは淡い青色の服を着ている。柔らかな素材の服で、体の線が薄っすらと分かる。小ぶりながらも形のいい乳房と豊かな臀部があらわになっている。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
「あの、聞いていいですか?」
「昨日、部屋に戻りました?」
「戻りませんでした。友達の家に泊まったの」
「でも、誰か居たような気がしましたよ」
「ときどき、友達に貸すんです。昨日の夜も貸しました。友達が不倫していて、男との密会のために使います。変な声とか聞こえました?」と微笑む。
「いえ、何も」
にわかには信じがたいが、つじつまは一応合っている。それに、ケイコは少しも動揺していない。マコトは安堵し、絵筆を進めた。
ようやく絵が完成した。絵筆を止めると、ケイコがじっと自分を見つめていることに気づいた。妙な息苦しさを感じて窓を開けた。すると、一陣の風が入っていた。風が女の甘い香りを運ぶ。春の淡い花の香りのようである。マコトはその匂いを嗅いだ。ケイコは優しい目でじっと見つめている。突然、マコトは恋していると悟った。ケイコに抱きついた。ケイコはあたかもそれを予期したかのように、マコトの背中に手をまわした。
さらに手繰り寄せられたマコトがケイコに溺れるのに時間がかからなかった。昼も夜も、絵を描くことを忘れて抱いた。ケイコは抱かれる度に、いろいろ理由をつけて、マコトから金をせびり取った。その額が一千万を越えたとき、「もう金はない」と残念そうに告げた。マコトの母親が仕送りを止めたからである。すると、ケイコは今まで見せたことも無い顔を見せた。その鬼気に迫る顔に、マコトは思わず後退りした。
「そう、それなら、お別れね」
「どういうこと?」
「あなたとはもう二度と会わないということよ」と意味ありげに笑った。
「それにちょうどいいわ。そろそろ、引っ越しをしようと思ったの。あなたから頂いたお金で。残念だけどさようならね」
数日後、ケイコは本当に引っ越した。
その日の夕方、「どうした? しょんぼりして」と帰ってきたばかりのマコトに話かけたのはツトムである。
「そんなふうに見えますか?」
「背中が泣いているよ」
マコトは微笑んだものの、ケイコと別れたという悲しみは覆い隠せなかった。
「近くの公園に行こう」
夕暮れも終わろうとしているせいか、公園の人影もまばらである。
「今日は仕事が休みだったんですか?」とマコトは聞いた。
「骨休みをした。暇だったからパチンコをした。勝ったよ」と笑った。
「気ままでいいですね」
「ぶらんこでも乗ろう」
ツトムはぶらんこに乗り、子供のように漕いだ。
「子供が乗るものと思っているのかね? ぶらんこは人生のようなものだ。行ったり来たり。ずっと続くように錯覚をしてしまう。が、それは間違いだよ。いいか、つまらないことは忘れろ、それが一番だ。あの女が消えたことでショックを受けているかもしれないが、良いことだ。ずっと一緒にいたら、骨の髄まで食い物にされる。まさに飛んで火にいる夏の虫だよ」
「そういう経験、あったんですか?」
「あったよ。いろんなことを経験したよ。世の中の甘いも酸っぱいも味わったさ。どうして、お前の母親が仕送りを止めたか知っているか。俺が教えたんだ。お前がいないときに母親が訪ねてきた。その時、忠告したんだ、もう仕送りをするのは止めろと。このままでいると女に食い物されるとね」とツトムは笑った。
「でも、簡単に忘れることができない」
「恋というのは、そういうものさ。何年が過ぎれば、それがどんなものだったか分かるさ。それまで悲しみを抱きしめて生きろ」
作品名:飛んで火にいる夏の虫 作家名:楡井英夫