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みやこたまち
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インタルジア -受胎告知―

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pie.2 軽業する小箱



 銀行へ行ってもらおうとして銀行印の在処を思い出せず、彼女の勘に頼りきりになって数十分が経過した頃、今は納戸になっている奥の六畳から「あら」という、彼女には珍しい嬌声が聞こえてきた。

 私は美薗の初心{うぶ}な姿を想像しかけたが、胸の痛みが俄かに増した為、彼女の銀縁眼鏡だけが照れたように浮かぶ、という奇妙な映像に、しばらくの間悩まされる羽目になった。

 美薗は金属製の小箱をあたかも、押し戴いたように持ち、魅入られたような足取りで座敷へ戻ってきた。

「岸田さん。これは何ですか?」

 美薗は、私の枕辺にかしずき、その小箱をおずおずと差し出した。上気した頬は彼女の端正な輪郭をぼかして柔らかく、私は殆ど初めて見せた彼女の油断に内心大きく安堵しながら、苦労して眼球の焦点を合わせた。

「ああ。ずっと忘れていた。まだ残っていたんだね」

「磨けばピカピカになりますよ。オルゴールみたいですけど蓋が開かないんです。何かの記念品ですか?」

 両切煙草の箱くらいの大きさにもかかわらず、手渡されてみると存外に重たい。この重量と金属の冷たさが、私の古めかしい記憶の鉱脈を掘り当てた。

「その上をこすると埃が取れて硝子板になっているので内部が見えるようになる。だがそれは動かないんだ。レプリカだからね。原物はもう少し大きくて、それは精巧な細工が施されていたものだよ」

 私の言葉は緩んだ歯茎のせいで大変に聞き取りにくい。だが毎日私と過ごしている彼女の耳は、こんな木端のような私の声を明瞭に聞き分けられるようになっていた。近づいた彼女の耳朶が、ささくれた唇に触れる微かな冷たさに、私は浄化されていくような有りがたい気持ちになる。

 畳に尻をつけた彼女の身体は弛緩しきっていて、具象的形態に細工される前の暖められた粘土の山のようであった。私は少しだけこちらに傾げた彼女の頤に、果敢無さを看取っていた。

 そんな朧気なシルエットの中で唯一完成されている両手の指のライン上で、例の小箱が曲芸じみた運動をしていた。彼女の無意識が小箱に触発されて奏でる無音のタランテラにあわせ、金属箱は十本の指を夢見るように波乗りする。彼女はその様子を、息を呑んで見つめているのである。

 ジーンズにグレイのトレーナーの上から、支給されたエプロンをぞんざいに締め付けた姿で立ち働く彼女の凹凸を、後ろめたさを感じつつも盗み見ずにはいられなかったいつもの私ならば、今にも私の蒲団へしなだれかかってきそうな彼女の様子から存分な媚態を抽出し、密やかな享楽の具としてしまう所なのだが、この時ばかりはさしもの私の欲望も、抑圧の下で喘ぐばかりであった。

「さきほどの痛みは、こいつのせいか」

 そう思った矢先、彼女の身体に心棒が通り、一枚の透明な皮膜が彼女の瞳を覆い尽くした。

「どこか痛い所がありますか? そういえば寝返りを打つ時間が過ぎてましたね。ごめんなさい。私、岸田さん事ほったらかしにしてしまって……」

 私は声に出したつもりは無かったが、つい呟いていたのかもしれない。彼女の敏感さに驚嘆しながら、私が彼女の生活から奪ってしまった安楽と、その量刑とを考えた。私が自分の思い通りの事を言っても、また忍耐したとしても、彼女にとっては負担であり、負い目になる。いっそ彼女がこの家に来られなくなる程いじめ抜いた方が、彼女の為になるのではないだろうかとも思われた。

 私の身を清める手元が日々確かになるにつれて、彼女の幸せとは何かという事をつい失念していたのだが、こうして枷を外された彼女の放恣な様子を見てしまうと、本当に申し訳が無いという思いで一杯になるのだ。

「こんな仕事はもう嫌でしょう。あなたのように若くて美しい人が、廃人の相手で時を浪費するのは良くない」

 私を包んでいる幾重もの布切れをかいがいしく直している彼女に向かって、私はそう呟いた。しかし、シーツを折り込むのに必死の彼女の耳には届かないようであった。

「そうだろう」と私は自重した。続けるのも止めるのも、彼女が決定すべき問題なのだ。私の思惑に左右される事など無いのだ。他人の人生に影響を及ぼす力など、私には永遠に失われていたのだから。

「そんなものがお好きですか?」

 黄昏を映す障子を背にした彼女に向かって、私はそう尋ねてみた。彼女は小箱の軽業を見つめたまま、首だけをこちらへ傾けた。

「今まで、自分でこういう小物とかをいいなって思う事は無かったんですけど、不思議ですね。タンスの奥で埃まみれだったこの箱が、何だか私を見て肩を聳やかせたように感じて。そう、拗ねるみたいな。物が呼ぶってこういう事を言うんだろうな、なんて」

 頬が赤いのは羞恥では無く高揚のせいなのだろう。これほど彼女を熱中させる品物を、私が所有していたという喜びは、久しく忘れていた感覚を私にもたらしてくれた。

「中に七色の琴糸が張ってあるのが分かりますか。原物は、それらが耐えず細かく震えながら波打っていた。微細な振幅が互いに干渉しあって無限の色合いと奥行きとを創出する、素晴らしい細工だった」

「一本だけ残っているみたいです。白い糸。やっぱり思い出の品ですね。岸田さんがお作りになったんですか?」

「いや。この金属製のは私の仕業だが、もともとは彼が作ったものだった。彼は赤い糸が私だと言ったんだ」

「彼?」

「彼?」

 彼女の脳裏に、今、大きな位置を占めているものが何であるかを、私は確実に答える自信があった。そして、それに応えられるのは私の他に無いのだという確信があった。同時に同じ事を思い、同様にその一点に集中する二人の間に連帯が生じない筈はない。

 込み上げる言葉は喉を張り裂かんばかりの奔流となった。傷ついた舌を鼓舞しながら、私は全霊を傾けて、彼女との結節点を既成事実にする為に語り始めた。

「昔、肩を聳やかし眉根を片方だけ、唇と一緒に持ち上げる癖のある男がいた事を、私はあなたに話した事が無かったね。どうした訳か、この箱が出てくるまで、私も彼の事を失念していたのだという事に、今気付いたんだよ……」

 彼女は私の話をいたく気に入り、もっと、彼についての話を聞かせてほしいと言った。私は誇らしさと妬ましさとを覚えながら、彼女の為に思い出せるだけの記憶を探って日々を送っているのだ。